雑感
     低線量被曝 -3  F-220



島薗氏への公開書簡  その一  ―“思い込み”による「思考不全」―  2015.8.31
   

島薗 進 様

前略

2013年12月の連続ゼミナールでご挨拶させていただいた塩川です。その時、ネット上で“不毛な信念対立”について活動しており、いつか島薗様のことを書かせていただきたいと申し上げましたが、それがようやく実現しました。

実は、島薗様の放射線被曝に関する精力的なご活動には深い敬意の念を抱くとともに、何かしらの違和感、そして既視感を覚えていたのですが、最近その答えを見つけることが出来ました。これに関して公開書簡の形でまとめさせていただきましたので、ご参考にしていただければと思います。

 

1. ご主張の不思議

1)安全性を証明しようとする研究

ご著書「つくられた放射線『安全』論」(2013年2月、河出書房新社)の副題は「科学が道を踏みはずすとき」であり序章にはナチスや731部隊の人体実験の例(p39)も挙げられていましたので、本書では放射線被曝関連の科学者のどんな悪行が告発されているのかと思ったのですが、肩透かしを食らってしまいました。それらしきものがどこにも見つからないのです。

 

実際、第2章「放射線の安全性を証明しようとする科学」は本書の3割(72ページ)にもおよび、「安全性研究」それ自体が罪悪のような書きぶりが続いています。しかし、本来どんな研究を行い、どんなデータを得たとしても、それ自体で非難される理由はありません。非難されるのは、それこそ人体実験のような倫理に反する研究、あるいは捏造のような不正研究だけです。

しかも、本研究ではLNT説を否定できるデータはまだ十分ではないとの判断(p135)が下されており、これはあくまでデータを重視する適切な態度です。せめて「データをごまかした」「不適切なお金や利権を得ている」などの事実が示されているのならともかく、その疑いの指摘すらありません。そうなりやすい外部圧力があることを盛んに指摘しておられますが、このような利益相反はどのような研究でも同じです。

 

かつて極めて危険な発がん物質として全面禁止されたDDTは、その後の「安全性研究」で発がん性は低いことが分かり、現在では復活してしまったマラリヤ対策として著しい効果を上げています。この「安全性研究」も「道を踏みはずした」ことになるのでしょうか? 

告発の雰囲気にのまれてなかなか気づきにくいものですが、改めて考えると実に不思議なことです。

 

2)「不安こそ問題」

第3章の「『不安をなくす』ことこそ専門家の使命か?」も本書の3割近くにおよび、被災者の不安解消を重視する「御用学者」の考え方を詳しく批判しておられますが、やはり不思議なことがあります。

 

まず、批判の前提となる事実関係が明示されていません。例えば、異常なしの所見をもらっても自分はがんで死ぬと怯え続けている「がん恐怖症」の人々に対して不安解消を重視するのは適切ですが、「生存率5割」のがん患者に対して不安解消を重視するあまり治療がおろそかになってしまうのは明らかに間違っています。つまり、当然のことながら、不安解消の重視が適切か否かはリスクの程度(量)で決まるのですが、このリスクの程度が本書のどこにも示されていません。

絶対不可欠な事実関係の前提を示さないまま論を進めることが出来るというのは、実に不思議です。

 

つぎに、「不安こそ問題」が「御用学者」(長瀧重信氏)の信念(p218、225)と決めつけておられますが、それは妥当性に欠けると思われます。もともと医師は様々なリスクの程度を見きわめた上で、不安も含めた対処を多面的に検討して総合判断するのが当たり前なので、彼らがそのような画一的・固定的な信念を持つことなどあり得ないでしょう。実際、この信念には沿わない「御用学者」の活動として、食品中放射能の基準改定や監視、あるいは県民健康管理調査が積極的に行なわれていますし、最近では放射線医学総合研究所からは福島原発近くのモミの形態変化も発表されています。

問題視しておられるチェルノブイリ被災者に関する長瀧氏の発言(p216)は、リスクの程度を見きわめた上で不安解消を最重視すべき(「がん恐怖症」に近い)と判断したものですし、あくまで原爆治療経験のある日本からの医療協力の役割としての話しです。その判断に疑問を呈しておられますが、根拠のない非専門家の憶測でしかありません。客観的にみて、この例だけでなく他の様々な批判も相当無理な解釈をしておられます。

とても不思議なのですが、島薗様はご自身で創り上げた架空の「不安こそ問題」と必死で戦っておられるとしか見えないのです。

 

以上のように、本書の柱となっている「安全性研究」と「不安こそ問題」については、正直申し上げて致命的とも言える欠陥があると思います。

 

3)他の不思議

その他にもいくつも不思議な点があります。

 第一に、放射線の「安全性研究」を進める研究者に対して「LNTモデルを覆そうとする強い意志」「防護基準を緩める方向で研究を進めていこうという意欲がひしひしと感じ取れる」(p135)、「ICRPの立場を尊んでいるかのそぶり」「ホルミシス論が正しいのだという考えがにじみ出ている」(p151)との表現を使っておられます。これらは不当な研究と感じさせる印象操作ではないでしょうか?

 第二に、「原子力災害専門家グループは楽観論を唱える科学者で固められている」(p89)、「放射線の影響に詳しい西尾正道氏や平栄氏などの見解を無視している」(p92)としておられますが、これでは国がごく少数の「楽観論」信奉者だけを無理やり集めているかのように思ってしまいます。しかし、「楽観論」は放射線影響学・防護学での科学的コンセンサス(p33)ですし、放射線治療の専門家である西尾氏と平栄氏は放射線影響学・防護学では素人同然です。これは読者を誤解させるミスリードではないでしょうか?

 第三に、「低線量被曝による健康被害を懸念すべき科学的データはたっぷりある」(p194)としておられますが、その懸念に意味がないことを示すデータは比べられないほどたっぷりあります。また、平均的日本人は自然+医療由来で6mSv/年の外部被曝、およびカリウム-40で4000ベクレルの内部被曝をしていますし、福島県よりも放射線量の強い地域は世界に多数ありますが、これらについては一切触れられていません。これでは偏向した説明になるのではないでしょうか?

 第四に、長瀧氏の科学者向けの発言である「『合意に達している事項はどこまで』と明確に表明し、合意に達していない部分は『科学的に不確実・不明』と一致して社会に示す必要がある」のなかの「一致」という言葉を取り上げて、「科学的情報は政治的に統制されるべきだということ」「情報統制」と批判(p99)しておられます。これは曲解による勘ぐりではないでしょうか?

 第五に、随所で山下俊一氏とその師である長瀧氏を厳しく執拗に批判されており、上記の「安全性研究」とともに道を踏みはずしていると見なしておられるようです。「安全性研究」とちがって今度は問題点の指摘はあるにはあるのですが、いずれも単に印象・解釈の違いの問題であって、客観的に見て島薗様に曲解があるように思えます。そこには何らかの先入観・偏見・敵愾心が感じられます。なぜか、権威を持った科学者に対してネガティブな思いがおありのようです。

 第六に、原発事故後半年ぐらいは被災者の被曝量が不明で、涙の会見などから誰もが20mSv/年程度の外部被曝量を覚悟し、内部被曝はこれよりもずっと深刻になると危惧していました。しかし、事故2年後の本書出版時には被曝量は当時予想より1桁以上も少なかったことが確認されていたのですが、本書では実状から外れた20mSv/年の基準をさかんに批判しておられます。さらに、事故後4年半後の現時点では外部被曝はより減少し内部被曝はほとんど無視できることも確認されていますが、ご主張は(事実に関するご判断も)事故後半年頃とほとんど変わっていません。なぜ、前提となる事実の大幅変化にも関わらず、従来のご主張を唱え続けておられるのでしょうか? 

 

以上は分かりやすい例を示しましたが、本書にはこれに類したものが頻繁に出てきます。厳正を重んじ、事実に忠実で、真理のみを追究すべき学者としてはいかにも不適切ではないでしょうか? 
 本書以外での不思議も以下に示します。

 

 第七に、Study2007氏による「見捨てられた初期被曝」の出版を受けてツイッターにて [ この本を読んでも長瀧氏はまだ「健康被害なし」路線を貫くのか?]  と呟かれました。これではいかにも「決定的な真実が白日の下にさらされた」かのような印象を与えますが、この本は別データから相当複雑な推論で導き出した異なる見解を示しているだけです。しかも、その内容は長瀧氏座長の会議参考資料として、出版前から環境省のホームページで公開されていました。

 また、牧野淳一郎氏による「被曝評価と科学的方法」も [ 歴史に残る科学書] と賞賛しておられますが、そのまとめ(p123)には「もちろん、繰り返し述べたように、だからといって現在、健康被害がでている、とか、これから必ずでる、といえるわけではありません」と記されています。島薗様のご発言から受ける印象と両書の実際の中身はずいぶん乖離しています。なぜ、週刊誌の宣伝文のような発言をなさるのでしょうか?
(2015.7.13  http://twilog.org/Shimazono/date-150713 )

 第八に、東京大学の同じ哲学系教授である一ノ瀬正樹氏は、放射線被曝に関わる「いのち」やリスクについて哲学・倫理の観点から論考を深めた詳細な論文(47ページ)を公開していますが、そのなかで島薗様らの考え方を厳しく批判しています。現在取り組んでおられる科学要素の強い問題とは違って、この論点はご専門そのものです。また、公開論争によって問題点を徹底的に掘り下げて進むべき道を社会に問うことは、学者としての本来の仕事のはずです。なぜ、しっかりとした反論をなされないのでしょうか?
(東京大学哲学研究室『論集』33号、2014年、p11    http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf/Ichinose2015b.pdf )

 第九に、一ノ瀬論文には「被曝線量データが判明してもなお、『いのちは大切』なのだから、不安に思うのが当然だとか、福島は危険だなどと言い続けた人々が、多くの避難民に影響を与えて、可能な帰還をためらわせ、その結果、震災関連被害を増えるがままに放置することになってしまった」との記述があります。島薗様はこのような「放射脳」加害者の代表格として、当の被災者からも名指しで厳しく批判されていますが、それに真摯に対応しておられるようには見えません。なぜか、「御用学者」を罪人のごとく激しく非難しておられながらも、ご自身の加害性には無頓着のようです。

 

以上の不思議の理由をご本人の専門知識不足や情緒的主張のせい、あるいは反原発・反体制のプロパガンダとする向きも多いのですが、事はそんなに単純ではないと思います。私はここにもっと複雑で根深く、しかも本質的で普遍的な問題が潜んでいると考えています。

                                                                                                                                                       

2. 認識?  “思い込み”?

まず、この問題の発端となっているものから検討します。本書の副題の「科学が道を踏みはずすとき」と上記の数々の不思議から推測するに、島薗様は少なくとも「将来、甚大な被曝被害が発生する」と考えておられるようです。では、どのぐらい「甚大」とお考えなのでしょうか? 

上記1-2)で示したように「不安こそ問題」が明らかに間違っている(島薗様のご批判が適切)と言える「生存率5割」は10 Svの被曝量に対応します。これに対して実際の被災者の追加被曝量は1mSv/年程度なので、この差は4桁にもなります。子供の高感受性など諸条件を考慮してどんなに過小評価したとしても、この差は2桁以上となるでしょう。科学的コンセンサスからはこのような結論となります。

したがって、示されていなかった「不安こそ問題」批判の前提は、「将来、科学的コンセンサスより2桁以上も甚大な被曝被害が発生する」ということになるでしょう。

 

このような前提であれば、島薗様が大変厳しく批判し続けておられること自体は理解することが出来ます。しかし、この「2桁以上」にしっかりとした根拠はあるのでしょうか?

中野毅氏による書評(http://tnakano1947.asablo.jp/blog/2013/04/29/6793181)では、本書の問題点として「結局、低線量被爆についての見解は、どれが正しいのかは必ずしも本書からは判断できない」としていますが、確かにそれに関する記述自体が存在していません。また、金森修氏による書評(週間読書人2013年4月5日)では、「陰鬱な雰囲気を発散させている」としていますが、確かに思わせぶりな記述はあっても具体的な根拠は全く示されていません。

他のご著書や公的なご提言、ご講演・ツイッターでは様々な危険寄り情報を紹介しておられますが、いずれも断片的・示唆的なものでしかありません。よく引用される西尾氏のような危険寄り医師でも「2桁以上」までは考えていないはずですし、しかも彼らは医師の中では2桁以下の少数派です。また、学術的に考えても、理系科学者でない島薗様が短期間で放射線影響学・防護学を学んだ上で、当学会の科学的コンセンサスを根本から覆す真実を見出すことなど不可能でしょう。

そこで、この「将来、科学的コンセンサスより2桁以上も甚大な被曝被害が発生する」はしっかりとした根拠もないのに固く信じている、いわゆる“思い込み”であると言わざるを得ません。

 

島薗様と同じような “思い込み”に陥っている人は少なくありません。被爆医師の肥田舜太郎氏、物理学者の沢田昭二氏、神学者の川上直哉氏、あるいはICRP批判で知られている故中川保雄氏などが当てはまるのではないかと思います。(中川氏の分かりやすい“思い込み”例としては、1990年ごろご執筆の文には「放射線に敏感な幼い時期に被曝した人たちが・・それまで”潜伏”していたガンに襲われだした。その急増は、1970年代末に現れはじめていたが、1980年代半ばにはきわめて顕著なもの・・となった。」(放射線被曝の歴史<増補>、p186)とありますが、現在被爆者の寿命は全国トップ級です)

 

一方、Study2007・牧野両氏の上記著書は、根拠をしっかり示しているので“思い込み”ではなく認識と言うべきでしょう。また、両氏の認識の中身は、「御用学者」に賛同していない点では島薗様の“思い込み”と同じですが、下記のように明らかな違いがあります。

 ・「御用学者」:科学的コンセンサスによる被害予測よりも深刻になる可能性は非常に低い
 ・両名 :「御用学者」の見解が正しいかもしれないが、被害予測よりも深刻になる可能性も十分ある
 ・島薗様 :「御用学者」の見解は間違いで、被害予測より2桁以上も深刻になるのは明々白々

 

認識とは違って“思い込み”は「根拠もなく信じている」ので、それが故に上記の不思議で示唆された問題の発端となります。なお、下記に説明するとおり、この問題は“思い込み”の中身の真偽とは無関係になっています。(ただ、根拠なしで信じているだけに、実際には間違っている可能性が高い)

 

3.  「思考不全」

つぎに、“思い込み”は信念やアイデンティティと絡まって脳内で特徴的な動きをし、最終的に「思考不全」を引き起こします。これについて検討します。

1)“思い込み”と信念

 根拠なしで信じている“思い込み”は、その人の信念の影響を受けているはずです。分かりやすい例として、ワンマン企業が時代遅れの新事業で大失敗することはよくありますが、どんなに忠告されても社長が“思い込み”事業を突き進めてしまうのは、かつて成功した経営方針を信念としているからでしょう。映画「12人の怒れる男」の陪審員3番と10番による「奴は有罪だ!」との“思い込み”は、それぞれ少年は憎っくきもの、スラム住民は悪人という信念によるものでした。

また、上記2-3)の各氏の信念は反核であり、特に肥田氏・沢田氏では核兵器忌避、川上氏では信仰・倫理、中川氏では核体制への反発の面が強いように思われます。

 

2)創造論者

参考とすべくキリスト教の創造論者について検討します。釈迦に説法ですが、創造論者は神への信仰においては一般のクリスチャンとなんら変わらないものの、生物起源に関してはすべての生物は今ある姿のまま神から創造されたとする“創造論”を固く信じています。理系高学歴者を多数含む創造論者は“創造論”こそ科学的にも正しいと主張しますが、生物学での科学的コンセンサスからは根拠のない“思い込み”になります。そして、“創造論”が影響を受けている信念は、当然ながら神への信仰です。

 

創造論者の脳内では次のような動きがあるはずです。

a) まずは、神への信仰(信念)と“創造論”(“思い込み”)が互いに相手の根拠になるという支え合いの関係が成立し、両者が一体で創造論者のアイデンティティ(実存的な自己同一性、自己存在の拠り所)になっている。

b) アイデンティティの防衛本能により、“創造論”の正しさは疑う余地もない、しかも神よりも次元の低い科学による根拠は意味がないと決めつけている。つまり、進化論を端から否定し、頑なに「はじめに『創造論』ありき」を固持している。

c) この時には、関係している思考回路が短絡・断線してしまったような「思考不全」が発生している。(あえて言えば、“減思力”(p78)のうちの本能的なものが「思考不全」)

d) 「思考不全」はフィードバックして“思い込み”をより強固にし、全体の動きをより顕著にする。

e)  本能によるものなので、本人はこれらの動きや「思考不全」には気づいていない。

(もし何らかの理由で信仰を失った元創造論者が、何年後かに創造論の本を読み返してみると、かつて自分が科学的に正しいと主張していた理論がどうしても理解できないことに困惑するはず)

 

このため、創造論者の行動としては、進化論の科学的な根拠は問答無用で無視し、進化論に対して揚げ足取りや重箱の隅をつつくようなレベルの低い批判を積極的かつ執拗に行なっています。その一方で、“創造論”のためには非科学的な屁理屈を臆面もなく展開しています。一般の人が創造論者と話しをすると、知的で誠実な人柄からは思いもよらない「思考不全」に驚かされますし、明らかな矛盾点をいくら指摘しても「のれんに腕押し」なので唖然としてしまうでしょう。

 

そして、最近気がついたのですが、私が原発事故以来ずっと島薗様に感じていた違和感・既視感は、まさにこの創造論者だったのです。島薗様のそれこそ知性豊かで誠実そのもののお人柄からは思いもよらない「思考不全」や「のれんに腕押し」だったのです。

 

3)島薗様

創造論者を参考にしながら、島薗様の“思い込み”を検討させていただきます。まず、島薗様の“思い込み”に影響を与えている信念は何でしょうか? 島薗様は西洋医学よりもおきゅうを信じておられますし、ご祖父で元日本医学会会長の田宮猛雄氏を反面教師にしておられるようです。また、本書の3割にもおよぶ序章・第一章では原発事故後における政府・東京大学・日本学術会議などの対応を大変厳しく批判しておられますし、本書の目指すところを「現代科学について回る奥深い負の問題の理解を深めること」(p39)としておられます。山下・長瀧両氏への非難も尋常ではありません。

これらから、島薗様の科学と権威(正確には、還元主義的な科学と強大組織の権威主義)に対する強い不信・反発、言わば「反科学」と「反権威」との信念が“思い込み”に影響を与えているように思えます。

 

つぎに、島薗様の脳内での動きです。ここで、島薗様の「将来、科学的コンセンサスより2桁以上も甚大な被曝被害が発生する」との“思い込み”を中心とする見解を“危険論”、科学的コンセンサスである「御用学者」の見解を「楽観論」とします。

a) まずは、「反科学」「反権威」と“危険論”が支え合う関係となり、これらが一体で島薗様のアイデンティティのひとつになっているようです。

b) アイデンティティの防衛本能により、“危険論”の正しさは疑う余地もない、しかも「反科学」故に科学的・論理的な根拠はたいした意味がない、また「反権威」故に「御用学者」の見解を信用してはならない、と決めつけておられるようです。

つまり、「楽観論」を端から否定し、頑なに「はじめに“危険論”ありき」を固持しておられるようです。

c) この時には、大変失礼ながら「思考不全」が発生しているとしか言いようがありません。

d) この「思考不全」は“思い込み”をより強固にし、全体の動きをより顕著にするでしょう。

e) 本能によるものなので、ご自身はこれらの動きや「思考不全」に気づいておられない、あるいは半ば気づかれても無視しておられるのではないかと思われます。

 

以上まとめると、甚大な被曝被害との“思い込み”および「反科学」「反権威」との信念が互いに支え合ってアイデンティティになり、その防衛本能により「はじめに“危険論”ありき」の「思考不全」が発生しています。これを図1に示しました。

   

 

そして、このような脳内の動きによって、島薗様はつぎのような暗黙の行動原理を固めておられるのではないかと思います。

・『御用学者』の唱える「楽観論」の科学的な根拠は、どんなものでも問答無用で無視する。

・「楽観論」に対しては、レベルが低くても積極的かつ執拗な批判を行なう。

・“危険論”のためには、非科学的などんな理屈を使ってでも必ず正当化する。

残念ながらこのように判断せざるを得ません。上記の不思議はこの行動原理による展開の一端だと思われます。

 

当然ながら、実際には、まさに上図の通り、あるいはこれだけ、ではないはずです。信念には反原発・反核や反体制もあると思いますし、“思い込み”と支え合うのは信念だけでなく正義感や弱者への共感などの真摯な思いもあると思います。あるいは、もともと科学的思考力や専門知識が不足している、事実より感性に基づいた情緒的な主張になっている、わざと主流の「楽観論」に対するカウンターバランスとしている、などの面もあると思います。

しかしながら、嘘も平気ないい加減な人物ならいざ知らず、知的・誠実で真面目な島薗様が繰り広げておられる様々な不思議は、どうしてもこの「はじめに“危険論”ありき」の「思考不全」でしか説明できないと思います。そこで、これが島薗様のご主張・行動の核心にあると考えさせていただきます。

 

もっとも、このような “思い込み”による「思考不全」は多かれ少なかれ誰にでもあるものだと思います。(論争相手に感じることの多い「バイアス」もこの現れのひとつ) ただ、島薗様は影響力のある公人ですし、「思考不全」が非常にクリアーかつ強力に現れているようでしたので指摘させていただきました。

 

4)科学的な認識  

 この「思考不全」を伴う“思い込み”は、放射線被曝に関して必須である科学的な認識とは全く異質で、まさに水と油となっています。すでに理由は上記で説明されていると思いますので、要点のみ表にて比較しました。


「楽観論」寄りの人が島薗様のご主張に接すると、反対というよりもむしろ「戸惑ってしまう」のはこれが原因でしょう。

 

4. 最後に

島薗様はご祖父の田宮氏を「有機水銀説の確定を遅らせ、結果的に新潟の第二水俣病も含め、被害を拡大させる結果を導いたとされている」(p263)としておられますが、私としては田宮氏を“思い込み”に躓いた悲劇の人だと思っています。

水俣病はすでに全国的に注目を集める事件となっていましたので、もし田宮氏が事態の重大さに気づいていたなら隠蔽など行なうはずがありません。後々、厳しく追求されることは火を見るより明らかです。一方、そうそうたるメンバーからなる田宮委員会が能力的に劣っていたことなどもあり得ません。

その時、一体なにが起きたのでしょうか? 恐らくは「熊本大医学部の有機水銀説は間違い」のような“思い込み”があったと思われます。この“思い込み”と支えあったのは東大医学部や日本医学会の権威は守られるべきとの信念であって、それらによるアイデンティティ防衛本能が働いてしまったのでしょう。その時、各メンバーは有機水銀説を強く示唆するデータを目にしながらも、「はじめに“有機水銀説否定”ありき」の「思考不全」を起こしてしまったようです。これは、患者達はもちろんのこと、善意のメンバー達にも実に不幸なことでした。

 

 そして、島薗様と田宮氏は外面的な状況こそ全く異なっているにも関わらず、“思い込み”により「思考不全」が起きてしまうという脳内の動きの点ではほぼ同じになっていると思います。

 

島薗様には、この観点でぜひとも自己点検をしていただきたいと思います。 

 

草々


    



島薗氏への公開書簡  その二  ―感性的・情緒的な『思い』が実害を招く―   2015.12.19

島薗 進 様


前略

 公開書簡の続きです。前回の「その一」では、主にご著書の具体例から、島薗様には 「“思い込み”による『思考不全』」が発生しているとしました。今回の「その二」では、危険寄りの識者・市民の諸活動での特徴から、彼らには「『思い』過剰/“思考”希薄」が発生していること、このことがさまざまな実害を招いてしまうことを示します。また、前回の「“思い込み”による『思考不全』」は今回の「『思い』過剰/“思考”希薄」の究極形であること、彼らは実害回避・施策改善のキーパーソンになり得ることも示します。

 なお、本書簡での危険寄り識者・市民とは、島薗様をはじめとする意識が高く、純粋に被災者のために活動している善意の人々としました。付和雷同で、あるいは別の意図(反原発・反権力など)のために活動している扇動的な人々は対象外です。

 

1. 危険寄り識者・市民の発言と特徴 

 以下は危険寄り識者・市民の発言としてよく聞かれるものです。

  @「なによりも子供の命」

  A「被災者に寄り添うべき」

  B「もうすぐ影響が出る」

  C「人工放射線が危険」

  D「核は倫理に反する」

  E「リスクはゼロに」

  F「リスクの数量化はなじまない」

  G「飲酒・交通事故とのリスク比較はおかしい」

  H「多様な考えを排除すべきではない」

  I「その可能性は否定できない」

  J「不安を持つのは当然」

  K「安全寄り情報は信用できない」

  L「安全寄りの識者・『御用学者』・役人は悪人」  

  M「その認識は政府・東電を利することになる」

 

 これらの発言からは、危険寄り識者・市民の真面目でひたむきな『思い』がよく感じられます。しかし、詳しく検討してみる(後述 3.)と、次のような気になる点も出てきます。

 まず、感性的で情緒的な『思い』(感情・気持ち・意識・信念)が過剰なようです。例えば、a) 情に篤く、人の気持ちをとても大切にしている。 b) 熱血漢で、使命感が大変強くなっている。 c) 正義漢で、倫理や不正に大変敏感、など。

 その一方で、精緻で論理的な“思考”は希薄のようです。例えば、a) 情や気持ちの合理性には無関心。 b) 活動のマイナス面(加害性など)には無頓着。 c) 単純な善悪二元論になっている、など。

 

 このような特徴は島薗様や落合恵子氏・川上直哉氏など文系学者や文化人・宗教家に顕著ですが、津田敏秀氏・崎山比早子氏などの専門家にもその傾向が感じられます。最近開催された「第五回 市民科学者国際会議」は危険寄り陣営にとって最高の論理的な“思考”の場のはずですが、純粋に科学的な議論はごくわずかでほとんどが感性的・情緒的な『思い』の混じった議論でした。

 

 このようなことから、危険寄り識者・市民は感性的・情緒的な『思い』が過剰、精緻で論理的な“思考”は希薄、との特徴があるとして、これについて詳しく検討します。まず、検討の切り口とする「正しい事実判断」について整理します。

 

2. 正しい事実判断

 彼らの特徴が適切であるか否かは案件の内容に依存します。例えば、株銘柄を選ぶ時には危険ですが、結婚相手を選ぶ時には誰しもそうなってしまうでしょう。

1)事実判断と価値判断

 事実の真偽を判断する事実判断は精緻で論理的な“思考”に拠るべきで、『思い』のような主観的・非論理的なものがあってはなりません。また、事実判断は客観的で公的なものであり、その正しい判断結果は人によらず唯一で普遍的です。例えば、ある被曝量による死亡のリスク量(確からしさも含めたデータ群。10 Sv被曝で5割の致死など)は科学的な事実であり、基本的には正しい量はただひとつであってそれ以外は誤りとなります。唯一無二の真実です。
 一方、価値の優劣を判断する価値判断は価値観を主とした感性的・情緒的な『思い』に拠っており、論理的な“思考”は必要ありません。価値判断は主観的で私的(実存的)なものであり、その判断結果に正誤はなく人それぞれです。例えば、ボーナスで海外旅行するのも車を買うのもその人次第で、いずれも尊重されるべきです。

  

 なお、事実判断としては過去・現在の事実に関する判断だけでなく、将来に発生する事実に関する予測も含まれ、むしろこの方が重要となります。また、複雑な事象の事実判断では、非常に多くの(しかも、一部には間違いも、互いに矛盾もある)事実判断の結果群を基にして、総合的・包括的な判断を行なうことになります。この判断では、どの個別結果を採用するかなどで価値観が入りやすいのですが、それも排除して客観的な事実判断に徹するべきです。

 

 事実判断と価値判断が混じり合っている案件も多く、その場合には、まずは事実判断を行ない、その結果に価値判断を加えて最終結論を下すことになります。つまり、事実判断が土台となります。

 例えば、タバコを吸う/吸わないは価値判断そのもののようにも見えますが、実際にはリスク(肺がん)の事実判断が土台になっています。戦前に比べると現在の喫煙者は激減していますが、それは価値観が変わったからではなくリスクの事実判断が変わったからです。かつては無害どころか健康にもよいとすら考えられていたのが、今では非常に有害であることが医学的に確定しています。

 DDTでは 善玉 ⇒悪玉 ⇒善玉 ともっと劇的に変化しました。最初は「非常に有効な殺虫剤」として多用されたものの、しばらくして「極めて危険な発がん物質」とされ世界的に使用が禁止されました。しかし、現在では発がん性はほとんどないことが確認され、「WHO奨励の有効なマラリヤ対策品」になっています。環境と衛生のバランスを重視するとの価値判断はほとんど変わらずに、発がん性に関する事実判断が変わっただけです。

 このようにタバコとDDTの案件では、最終結論に対する影響力は土台の事実判断が「ほとんど」、価値判断は「わずか」であることが分かります。

 

2)被曝被害の場合
 それでは、放射線による被曝被害の案件(甲状腺一斉検診や避難・帰還などの政策・行政)ではどのようになっているでしょうか? これは事実判断と価値判断が混じり合っており、タバコ・DDTとよく似た構造になっています。

 事実判断としては、a)一般的な被曝リスク(被曝による疾病発生・死亡の可能性)、b)今回の被曝被害の実態・将来予測、c)検診や避難・帰還による被災者の具体的なメリット/デメリット、に関するもので、これらの判断によって最終結論は大きく変わります。さらに、現状では、これらに関する安全寄り陣営と危険寄り陣営の事実判断は大きく異なっており、この違いはタバコでの戦前と現在の変化にも匹敵します。 

 一方、価値判断としては、a)トータルの生活の質vs被曝被害の回避、b)最大多数の最大幸福vs最弱者の救済、に関するせめぎ合いになります。しかし、これらは最終結論をあまり大きく変えず、また常識的な判断になるので両陣営で大きな違いも出ないでしょう。したがって、被曝被害では、最終結論に対する影響力、および両陣営の違いは土台の事実判断が「ほとんど」、価値判断は「わずか」となっています。

 この違いをあえて数字で示せば、事実判断では1〜3桁(10〜1000倍)、価値判断では1〜3割(1.1〜1.3倍)とのイメージになるのではないでしょうか? そのため、事実判断の結果が割合としてはほんの少しシフトするだけで、最終結論は大幅に変わってしまいます。

 以上のことより、被爆被害の案件では「正しい事実判断」こそが最重要課題になっています。表1にまとめました。  


3)「異論検討」「真摯な議論」

 しかし、「正しい事実判断」に達するのは決して容易ではありません。そのためには、常に高度な事実判断を行っている科学論争(学術活動)で常識化している次の二つが不可欠となります。

「異論検討」  ・・・対立者の意見(異論)を冷静・慎重に検討する。

「真摯な議論」・・・対立者と真摯で建設的な議論を行なう。          

 不可欠なのは、もともと一人の人間(あるいは一グループ)の知識・能力は限られ、関心や思考方法もすでに固定化されているので、その人(グループ)だけでいくら頑張っても如何ともしがたい限界があるからです。要は、対立者の力を利用して、自分の弱点をカバーし自分の意見をレベルアップさせなければならないのです。この点に関しては安全寄り陣営も危険寄り陣営も全く同じです。

 

3. 危険寄り識者・市民の問題点 

1)発言の検討

 「正しい事実判断」の切り口から冒頭の発言を詳しく検討すると、危険寄り識者・市民の問題点が明らかになってきます。

@「なによりも子供の命」

 子供の命のためには、土台で「ほとんど」である事実判断が正しく行なわれなければなりません。留意すべきは、「正しい事実判断」に達するか否かは子供への『思い』には影響されませんが、この『思い』が成就するか否か(施策が有効か否か)は「正しい事実判断」にかかっていることです。「子供の命のためには、なによりも『正しい事実判断』」です。

 さらに、この発言は事実判断のつぎの段階の、しかも「わずか」でしかない価値判断が行なわれる時(様々な政策の中でどれを優先させるかを判断する時)になってはじめて意味を持ちます。今はこのようなアピールよりも「正しい事実判断」のためにエネルギーを費やした方が間違いなく「子供の命」のためになるでしょう。

 

A「被災者に寄り添うべき」

 少なからずの被災者が自分たちへの加害者として危険寄り識者・市民を厳しく非難しています。寄り添っているつもりの当の被災者(もちろん「御用」でも「原子力ムラ」でもない被災者)から批判されていることは重く受け止めるべきでしょう。公的な“思考”なしでの私的な『思い』の押し付けは罪作りとなります。

 なお、被災者の視点で考えることは価値判断では大いに意味がありますが、事実判断には何の意味もなく、むしろ視野が狭くなったり感情に流されたりで誤りをおかしてしまう恐れがあります。

 

B「もうすぐ影響が出る」 

 被爆医師である肥田舜太郎氏による「放射線の病気が始まるのはこの秋から来年の春にかけて。たくさん出る」の発言(2011年5月)は、当時のデータを論理的な“思考”で検討してさえいれば決して出てくることのないものです。ご自分の悲惨な経験の『思い』から行き過ぎてしまったのでしょうが、これを信用して有形無形の被害を受けた被災者は少なくありません。今現在も別の形で「もうすぐ影響が出る」と言われており、同じ事態になってしまう恐れがあります。

C「『人工』放射線が危険」
 「“自然”放射線は安全」が誤りであることは、扇動的ではない意識の高い識者・市民なら同意するでしょう。さらに福島県での「人工」放射線による外部被曝は“自然”放射線の一割、内部被曝は1%にも満たないこと、これらの合計被曝量はフィンランド・スウェーデン・フランスの半分以下であることにも概ね同意するでしょう。そうすると、この発言は「『人工』放射線はイヤだ!」との『思い』を訴えていることになります。もちろん、この『思い』は全く正当であり当然なことです。しかし、この発言は科学としては不適切なのは確かですし、被災者に不要なストレスを与えているのも確かでしょう。

D「核は倫理に反する」
 これは核兵器や原発推進に関しての価値判断であって、被曝被害に関する事実判断ではありません。しかし、これらが曖昧なまま発言されて、単なる物理現象である放射能に邪悪・穢れなどの『思い』が付加され、それが放射能ヒステリーを支えてしまっている面があると思います。そして、その放射能ヒステリーは被災者差別など倫理に反する事態を引き起こしています。
 一方、このような発言を理解してもらいたいとの『思い』で、“良く調べずに”事実ではない被爆被害を触れ回ってしてしまった場合があるかも知れませんが、これも倫理に反する行為になるでしょう。(“わざと”でなくても。過失や未必の故意による殺人が罪であるのと同じように) いずれも、倫理に反しているのは「核」ではなく人間の『思い』です。

E「リスクはゼロに」 

 多数のリスクが存在しているなかで、特定のリスクだけをゼロに近づけてもトータルのリスクはほとんど減少せず、実際にはむしろ他のリスクを増加させてしまうことになります。それにも関わらず、自分の『思い』に沿った特定リスクのゼロ(あるいは、予防原則適用)を要求するのは、自分勝手な価値判断でしかありません。公共の倫理に反するとも言えるでしょう。

 

F「リスクの数量化はなじまない」

 これは“自分の『思い』”になじまないだけであって、事実判断を放棄する無責任な考え方となります。いかに困難であってもリスクを数量化しなければ人の安全は守れません。例えば、水道水に添加する塩素量は、がん発生と感染症発生それぞれのリスクを数量化(濃度の関数に)してその合算値が最小となるように設定されています。

 

G「飲酒・交通事故とのリスク比較はおかしい」

 人それぞれの価値観を無視しているからとしていますが、比較自体は明らかに事実判断です。おかしいと思うのは、それぞれ座標軸(基準)が異なっていること、および事実判断が土台であることに気づいていないからでしょう。飲酒はがん死の座標軸、交通事故は便益手段での事故の座標軸ですので、まずはそれぞれの軸で事実判断(被曝被害との比較)を行なった後に、どの座標軸での結果を、どの程度重視すべきかの価値判断を行ないます。これなら納得できるはずです。

 

H「多様な考えを排除すべきではない」

 「多様な“価値判断”を排除すべきではない」は適切ですが、「多様な“正しくない事実判断”を排除すべきではない」は不適切です。したがって、この発言での“考え”の意味が問題となります。実際には、『思い』に基づく“自分でも正しいとは確信できない事実判断”であって、これをなんとか正当化するために発言している場合が多いようです。

 

I「その可能性は否定できない」 

 これも事実判断の正当化に使われます。この根拠として「こんな“事実”があった」としていますが、実際には、自分の『思い』に沿った“事実”だけを抽出して他の圧倒的多数の事実を無視しています。要は『思い』上の産物です。「現在の科学は不完全」ともしていますが、その科学がほとんどすべての事実をうまく説明していることを無視しています。これらの態度は事実判断に対する厳しさが欠落していますし、倫理にも反していると言えるでしょう。

 地球に小惑星が衝突したのは“事実”でも我々はそれを心配する必要はありませんし、ニュートン力学はニュートリノの動きは無理でも小惑星の動きを完璧に予測することができます。

 

J「不安を持つのは当然」

 これは「リスクは確認できていないが、人間として不安を感じる気持ちは当然」と「明白なリスクが確認されているので、不安を持つのは当然」の両方の解釈ができます。前者は「『思い』(気持ち)も重視すべし」との価値判断になっているので、価値判断が「わずか」でしかない被曝被害の案件ではあまり重要ではありません。タバコ・DDTでも「安心⇔不安(善玉⇔悪玉)」で多くの人々の『思い』は翻弄されたでしょうが、誤った事実判断が多くの命を奪ったことに比べれば些細なことです。

 後者は「リスク」に具体性と信憑性がなければ意味はありません。もしかしたら自分の『思い』に沿った「リスク」、つまり「不安を持つべきリスク」が想定されているのかも知れませんが、これではまさにトートロジーになってしまいます。また、被災者はこの発言を後者として受け取り、心の隅にあった不安を増大させてしまうことにもなります。そうすると「リスクがあるから不安あり」ではなく「不安があるからリスクあり」のような倒錯した心理状態にも陥ってしまうでしょう。これは一種のマインドコントロール(まさに扇動者の狙うところ)ですが、これに加担していることになってしまいます。

 

K「安全寄り情報は信用できない」

 確信を持って断定していますが、しっかりした根拠と論理的な“思考”による事実判断にはなっていないようです。(放射線防護学・影響学に精通し、あらゆる証拠を徹底的に調べ上げて断定している人はほぼ皆無) 実際には安全寄り陣営に対する不信・敵愾心などの『思い』による価値判断となっている場合がほとんどであり、その確信も論理的な“思考”に対するものではなく自分の『思い』に対するものでしかないでしょう。

 ちなみに、異論への批判の表現は、論理的な“思考”による事実判断の場合は「議論の余地がある」「信憑性がない」「誤りがある」となる一方、感性的・情緒的な『思い』による価値判断の場合は「信用できない」「デタラメ」「嘘」となります。これからも事実判断/価値判断を判定できそうです。

 

L「安全寄りの識者・『御用学者』・役人は悪人」

 「悪人」の要件は「悪意を持った」「悪事を働く」であり、被曝被害は絶対に出ないとして避難指示も健康調査も行なわず被害拡大を招いたのならこれも要件になるかも知れません。しかし、論理的な“思考”に基づけば、彼らがこれらの要件を満足していないのは明らかです。

 一方、感性的・情緒的な『思い』からすれば、「自分たちは正義のために戦っているのだから、その自分たちに対立するのは悪人」(逆の「悪人だから自分たちは正義」もあり)となるのでしょう。さらに、「悪人になら怒りをぶつけられる」「悪対善の分かりやすい対立になる」「悪人とすれば世論が盛り上がる」としているのかも知れません。いずれにしろ不適切な善悪二元論です。

 

M「その認識は政府・東電を利することになる」

 これは安全寄りの事実判断(認識)への非難として飛び出てくるので、発言者は「政府・東電が困ることになるのが正しい事実」(!)と考えているようです。恐らくご本人としてはなんの矛盾も感じていないでしょうし、『思い』としては理解できなくもありませんが、論理的な“思考”では絶対にあり得ないことです。また、意識せずとも別意図のために被曝被害を利用していることになり、倫理的にも許されないことです。

 

2)『思い』過剰/“思考”希薄  
 上記@〜Mが互いに支え合って危険寄り識者・市民の言説を堅固なものにしていますが、そこでは最重要課題であるはずの「正しい事実判断」の影がとても薄くなっています。すなわち、事実(ファクト)の軽視・無視や事実判断と価値判断の混同・取り違えなどがまかり通っており、土台で「ほとんど」である事実判断がないがしろにされ、「わずか」でしかない価値判断が重んじられています。上記の表で言えば、本来とは逆の上段軽視、下段重視になってしまっています。やはり、危険寄り識者・市民には「『思い』過剰/“思考”希薄」との本質的な問題点があると言わざるを得ません。

 このようになってしまうのは、ややこしく温かみの欠ける論理的な“思考”よりも、ストレートで温かみのある感性的・情緒的な『思い』に心が寄せられてしまうからで、これは人間として自然です。しかし、それだからこそ「正しい事実判断」が重要な案件に対しては、内なる知性・理性は『思い』を極力排除し、“思考”を最大限駆使して「正しい事実判断」に達しようとするはずなのですが、ここでは知性・理性が十分に機能していないようです。

 

3)「“思い込み”による『思考不全』」と「反知性主義」
 知性・理性が機能しない典型は「思考不全」です。実は「『思い』過剰/“思考”希薄」のひとつの究極的な形が「その一」での「“思い込み”による『思考不全』」となっています。すなわち、「『思い』過剰/“思考”希薄」は、気持ち・感情・意識・信念などの強い影響によって論理的“思考”が希薄になってしまう様々な形を示していますが、その中で「“思い込み”による『思考不全』」は最もシャープで強力なものになっています。

 

 一方、「『思い』過剰/“思考”希薄」は、最近話題になっている「反知性主義」の具体的な一例でもあります。ただ、この「反知性主義」は米国に根付いている本来の意味であって、「既存の知性に対する反逆」「知性と権威の固定的な結びつきに対する反感」「明瞭に善悪を分ける道徳主義」「生硬で尊大な使命主義」(森本あんり)などとされるものです。実際、「その一」での島薗様の「御用学者に対する反感」や「反科学」「反権威」、上記1.での「正義感」「使命感」「単純な善悪二元論」などとよく通じています。

 (「反知性主義」は日本ではバカの言い換え的にも使われますが、これは扇動的な人々はともかく、本書簡で対象としている意識の高い識者・市民には当てはまらないでしょう)

 これら三者の関係は図1のようになります。

   

       

 なお、「反知性主義」を体現していたレーガン・ブッシュ両大統領による力強い政治は一定の評価を受けていますので、「反知性主義」は政治分野ではそれなりに意義があるのかも知れません。しかしながら、「反知性主義」の典型である創造論は米国世論を二分する大問題になっています。事実判断が土台である案件にも関わらず、創造論者は自分の価値判断(「聖書は真理」)を根拠にして事実判断(「聖書どおりの創造論は正しい」)を行なってしまっているからです。ここで、「聖書」を『思い』に、創造論を“危険論”、進化論を「安全論」に置き換えてみると、危険寄り識者・市民の問題点が端的な形で映し出されます。

 

4. どのような事態に? 
 以上のような「『思い』過剰/“思考”希薄」はどのような事態を招いているでしょうか? 危険寄り識者・市民の『思い』が成就するか否かがかかっている「正しい事実判断」が、まさにその『思い』によって妨害されてしまい、結局彼らの『思い』が成就することはありません。いわば自縄自縛です。詳しくは以下のようなメカニズムとなります。

1)質の低迷
 危険寄り識者・市民による活動では「質の低迷」が目立ちます。(あくまで「正しい事実判断」こそ最重要の被曝被害案件にとっての「質」。いくら文系学問や社会運動・人権問題としてのレベルは高くても、「正しい事実判断」に反すれば「質」は低い) 
 具体的には第一に、「正しい事実判断」に対する厳しさと熱意・努力が不足しており、事実判断とそれに基づく最終結論の信憑性が低くなっています。しかもその判断・結論を絶対化してしまっています。
 第二に、「正しい事実判断」よりも世論向けの情報発信に多くのエネルギーが費やされており、人々の『思い』に照準を合わせた情報戦を仕掛けています。(世論が味方についても「正しい事実判断」に近づくわけではありません)  しかもその内容に問題があります。全般に「現状否定」「不正(義)糾弾」路線で「情に訴える」「怒り・不安を喚起する(煽る)」スタイルになっており、偏った情報やミスリード・印象操作も目立ちます。安全寄りの識者・「御用学者」・役人に対する個人(人格)攻撃も行なわれています。

 (ちなみに、「質の低迷」が極端なのは危険寄り陣営の中でも扇動的な人々であり、意識の高い識者・市民は彼らと同一視されてしまっている面はあります)

 

 「質の低迷」の分かりやすい例としては、美味しんぼの著者は自分の体験をもって被曝による鼻血現象を主張し、批判に対しては「福島への『思い』」をさかんに訴えるだけで、それほど困難でもない鼻血現象の事実確認を行なおうとはしません。 ( 雁屋氏(美味しんぼ作者)への手紙) 

 『思い』による主張は控え、重要な事実確認を淡々と進めている早野龍五氏とは対照的です。

 

 「質の低迷」がより深刻なのは甲状腺がん一斉検診を県外にも拡大すべきとの主張です。この案件では早期発見・手術による転移防止などのメリットと過剰診断による不要手術発生などのデメリットを定量的に判断することが不可欠ですが、これは「将来の予測」「複雑な事象」「類似例なし」の悪条件がそろった非常に難度の高い事実判断となっています。

 しかしながら、危険寄り識者・市民はきわめて安易に「 メリット >> デメリット 」と判断し、それを絶対としてしまっています。たとえば、大前提となる被曝起因か否かに関してすら、「御用学者」の見解が誤りである可能性を指摘しているだけのStudy2007氏・牧野淳一郎氏の著作や一つの見解でしかない津田敏秀氏の論文を金科玉条とする一方、安全寄り識者・市民はもちろん有力な危険寄り識者である西尾正道医師までもが主張する否定論には全く耳を傾けようとはしません。勇気がいる)  メリット ・ デメリットの定量的な検討にはほど遠い状態です。
 また、ここぞとばかりに情報戦にエネルギーをつぎ込み、有病率と発生率を混同した情報発信や過剰診断論者への個人(人格)攻撃をさかんに行なっています。

 (ちなみに、もし彼らの事実判断が完全な誤りであり、万が一情報戦が奏功して主張が実現してしまったら多くの子供が傷つくことになります。新しい形の人災として歴史に残るかもしれません。誰も傷つけることのないニュートリノ研究でさえ、あれだけ綿密に研究され真剣に議論され慎重な上にも慎重な判断が下されているのに、比較にすらなりません。いろいろな『思い』に突き動かされているご本人には、その重大なリスクまでは考えがおよばないようです。「リスクゼロ」論者で、しかも「可能性は否定できない」どころではないにも関わらず、です)

 

2)「真実は霧の中」「不適切な政策・行政」

 安全寄り陣営は「質の低迷」故に危険寄り識者・市民を信用していませんし、意識下(無意識)での反感・拒否反応も相当なものとなっています。そのため両陣営間は没交渉となり、ましてや「異論検討」「真摯な議論」は全く実現していません。もし、これらが実現すれば、少なくとも安全寄り陣営の限られた知識・能力と固定化されている関心・思考方法は大きく揺さぶられるはずですし、Study・牧野・津田氏との場合では事実判断の修正もあり得ると思います。実にもったいないことです。

 結局は、「異論検討」「真摯な議論」なしで両者ともに自説を一方的に主張するだけの状態が続き、「真実は霧の中」に隠れたままとなっています。また、政策・行政を担う「御用学者」や役人は自分たちの事実判断だけで裁定を下すことになり、「不適切な政策・行政」になりやすくなっています。(「その一」の最後に触れた水俣病での田宮委員会はまさにそれでした)

 

 なお、ツイッターなどでは両陣営間で活発にやりとりがなされていますが、その多くは扇動的な人々であり、断片的で根拠の薄い主張の言いっぱなし、反論の無視・曲解、揚げ足取り、一方的勝利宣言などでしかありません。また、「御用学者」や役人を話し合いに引っ張り出したとしても、結局は形だけで実のないものとなっています。(ある話し合いでつるし上げられた役人が直後に「左翼のクソども!」とツイッターで呟いていました。 (朝日新聞への投稿文) 

 

3)実害

 以上の「真実は霧の中」と「不適切な政策・行政」によって、最終的には多くの人々がさまざまな実害を被ることになります。

 言うまでもなく最も深刻な実害を被るのは被災者です。「真実は霧の中」故に、被災者は自主的な避難で判断ミスをおかしてしまい、本当は必要だった避難を逃している、あるいは不必要な避難をしていることにもなります。その他の様々な点でも最適な選択が出来なくなっていますし、「不適切な政策・行政」故に、様々な点で不利な状況にもおかれます。

 

 間接的な実害は全国民までおよびます。「真実は霧の中」故に、国民は医療やエネルギー問題などで最適な選択が出来なくなりますし、「不適切な政策・行政」故に、除染など無駄な出費による他予算削減を強いられることにもなります。(福祉・防災予算の削減は確実に犠牲者を増加させるでしょう)

 

 対立している当事者自身も実害を被ります。「不適切な政策・行政」故に、「御用学者」・役人が社会的信用を失墜したり、責任を追及されたりします。失政が明らかなとなれば、訴えられて有罪となる可能性は高いでしょう。(いずれ真実は明らかとなります。甲状腺がんの問題も5年後には判明しているはず)

 危険寄り識者・市民はそれほどではないものの、同じく信用失墜・責任追及を受けることになります。「真実は霧の中」でも両者同罪です。まとめると下表2のとおりです。

    

 危険寄り識者・市民の信用失墜による利敵行為がすでに発生しています。肥田医師の「来年の春にかけて・・・」は“危険論”を貶めるための好材料になっていますし、最近では、なんと原発派の放射線防護学の専門家が、“危険論”を「被曝の影響をことさら大きく描き出す論調」として厳しく批判する本(「放射線被曝の理科・社会」かもがわ出版)を出しました。これで“危険論”のメインストーリである「原発推進のため、嘘まみれの安全論が喧伝されている」は崩壊してしまいました。実に手痛いオウンゴールでした。

 

 ここで重要なことを確認しておきます。危険寄り識者・市民の事実判断や主張が結果的に正しかったか否かによって、実害に大差が出るわけではありません。実害は、彼らの「『思い』過剰/“思考”希薄」自体が原因でもたらされるからです。また、事実判断が正しかったとしても責任を逃れられるわけではなく、むしろ実害はより深刻になるので結果責任はもっと重くなります。

 

 以上のように、善意の危険寄り識者・市民が胸にいだいている真面目でひたむきな『思い』が、その『思い』とは裏腹の結果を招いてしまっています。これはまさに「悲喜劇」としか言いようがありません。「20才で社会主義者でなければ、情熱が足りない。30才でもそうならば、頭が足りない」「地獄への道は善意で舗装されている」との格言に当てはめられても仕方がありません。

 

5.  危険寄り識者・市民への期待

 しかし、危険寄り識者・市民は「悲喜劇」ではなく実害回避・施策改善のキーパーソンになることが出来ます。安全寄り陣営、特に「御用学者」・役人の判断ミスを早期に鋭く指摘するとともに「異論検討」「真摯な議論」を実現させることは極めて重要ですが、それをしっかりと行なえるのは危険寄り識者・市民しかいません。彼らが「『思い』過剰/“思考”希薄」を克服し、活動の「質」を上げることによって安全寄り陣営の不信感を払拭することさえ出来れば、このような形で実害回避や施策改善に貢献できるはずです。
 (ちなみに、扇動的な人々との決別も必要になります。彼らを批判せず黙認していれば、いつまでも同一視されるでしょう) 

 

 これに対しては「自分たちはちゃんと指摘をしているのに、『御用学者』・役人が頑なに拒否する」との反論が返ってきそうですが、それは見当違いです。「御用学者」・役人は有罪判決を含む信用失墜・責任追及を極度に恐れているので、もし指摘が正しいと確信すれば率先してそれを受け入れるはずです。彼らにしてみれば、危険寄りの政策・行政にしておいた方が保身に有利だからです。有罪判決も避けられるし、危険ではなかったと判明しても「なーんだ」で済みます。

 それにも関わらず彼らが指摘を拒否するのは、やはり「質の低迷」故に、どうしてもその指摘が正しいとは考えられないからであり、意識下での反感・拒否反応が強烈だからでしょう。北風(情報戦)で無理やり上着(相手の事実判断)を脱がせようとしても無理ですが、太陽の日差し(正しい指摘)を注ぎ込むと、必ず自ら上着を脱ぎ捨てます。


 これが危険寄り識者・市民にとってご自分の真摯な『思い』を成就させ得る唯一の道ですし、意識改革とエネルギー投入先の変更だけ実現できることです。被災者のため、そしてご自身のためにぜひとも賢明な選択をしていただきたいと思います。

                                              草々




島薗氏への公開書簡 その三  ―普遍的な問題、その解決へ―


島薗 進 様



前略

公開書簡の続きです。前回「その二」では
 「『思い』過剰/“思考”希薄」
「(主張・議論の)質の低迷」「事実判断のミス」 「関係者の実害」「『思い』とは裏腹な結果」
となることを示しました。
 今回「その三」では、この問題(『思い』問題とします)が様々な案件で発生しており、とても普遍的かつ深刻であることを示します。また、この観点で「『思い』過剰/“思考”希薄」の掘り下げを行ない、初歩的ながらその内実を明らかにし解決策も提案します。
 しかし、本来ならこれらは学問的な研究テーマとして取り組まれるべきものと考えられ、ここに島薗先生のお力を発揮していただけないかと思っております。

 

1. 『思い』問題の例 

『思い』問題が目立つ案件を分野ごとに取り上げました。科学技術以外でも事実判断が重要なものが多く、そこで『思い』問題が発生しやすくなっています。

【科学技術】・・・どんな案件でも事実判断がほぼ100%。
@子宮頸がんワクチン
 反対派は被害少女への同情や推進派への怒りなどの『思い』に影響されて安易な事実判断を行ない、この『思い』に照準を合わせた情報戦をくりひろげています。しかし、そこには、関わっている専門家・医師の考えを変えさせるような精緻で論理的な“思考”はないので、結局は国の方針を迷走させる程度にしかならず、(たとえ結果的に反対派が正しかったとしても)少女たちが少なからずの実害を被ることになるでしょう。

A水俣病
 水俣病では患者確認から廃液停止までに実に12年もかかりましたが、この主な原因はチッソ関係者の『思い』に誘発された事実判断ミスの積み重なりだと思われます。『思い』としては、恐らく「地元に貢献している我社を糾弾するとは何ごとか」「操業停止にでもなったらどうする」「我社は潔白のはず」「日本にとっても我社の発展が大事」などの『思い』が、廃液原因説を示唆する様々なデータをスルーさせてしまったのでしょう。このため被害が拡大して大変な悲劇を生みましたが、同時に会社としても莫大な補償金に苦しめられることになりました。

BカーソンのDDT告発
 合成化学物質による自然破壊の不安という『思い』を強く抱いたレイチェル・カーソンは「DDTはきわめて危険な発がん物質であり禁止すべし」と判断し、その『思い』を強調した著作で世に訴えました。それが共感を呼び、彼女の主張は世論に受け入れられてDDTの使用が全世界的に禁止されました。しかし、この事実判断の誤りが判明するまでの数十年間、この使用禁止により撲滅目前だったマラリヤが再び蔓延して年間百万人程度の犠牲者発生が続いてしまいました。 

【科学技術 + 政治社会】・・・どんな案件でも事実判断が土台。下記例では事実判断がほとんど。
C原発の是非
 下記は反原発派と原発推進派の基本的な一対の主張であり、将来予測という形での事実判断となっています。
   A:「原発に頼らずとも再生エネルギーだけで電気は十分に足りる」
   B:「原発事故とは比較にならない甚大な被害をもたらす地球温暖化を防ぐには原発推進しかない」

たとえ「原発は夢の技術」との価値観などから原発推進に賛同していた人でも、再生エネルギー技術の発展によってAが正しいと判断すれば反原発に賛同するでしょう。また、「核は倫理に反する」との価値観などから反原発に賛同していた人でも、地球温暖化の進行状況からBが正しいと判断すれば原発推進に賛同するでしょう。つまり、地球規模での環境破壊(放射能汚染/温暖化)という重大事態に比べれば、人それぞれの価値観はささいなことであり、最終結論はこの事実判断によってほぼ決まります。
 また、本来の事実判断としてはAorBのように単純ではなく、複雑で奥深いものです。例えばAの「電気は足りる」としても、電気料金アップや停電頻度は? 産業への影響は? などの判断が重要ですし、Bの「甚大な被害」としても、どれだけ甚大か? 適応策は? などの判断が重要です。しかしながら、これらをはじめとする様々な事実判断を精緻で論理的な“思考” に基づいて行なっているとは言いがたく、実際には両陣営とも大半の人々は単なる自分の感性的・情緒的な『思い』によって単純にAorBが正しいと決めつけています。人類レベルの実害がかかっている選択を『思い』で決めつけてしまうとは、実に恐ろしいことです。 (パンドラの約束

D共産国家のヤロビ農法
 ルイセンコ理論を応用したヤロビ農法は共産主義各国にて採用され、かえって不作を招いておよそ1 億人もの餓死者を出したと言われています。事実(科学)として誤りであったルイセンコ理論が無批判でもてはやされた理由のひとつは、ルイセンコ理論が基づくとされた弁証法的唯物論への信奉という『思い』だったと思われます。

【政治社会】・・・多くの案件で事実判断が土台。下記例では事実判断が過半。
E安全保障
 下記は最近の安保法案の反対派と賛成派の基本的な主張です。
   A:「安保法案によって戦争に巻き込まれる」
   B:「安保法案によって戦争が未然に防止される」

戦争を好む人など誰もいないのでこの事実判断こそすべてとなるのですが、多くの人々は十分な検討(“思考”)もなく自分の『思い』でいとも簡単にAorBを決めつけてしまっています。
 また、60年日米安保の際には、左派は同じように「戦争に巻き込まれる」として犠牲者まで出す激しい反対運動をくりひろげましたが、これは事実判断としては全くの誤りでした。(「『戦争』云々ではなく問題の本質は対米従属」などと弁解するのなら、それは国民を欺いたことになります) このようなことが左派衰退の原因のひとつになりました。
 なお、自然現象によって決まる科学的事実が自然科学によって推測されるのに対して、このA・Bのような人間社会によって決まる社会的事実は政治学などの社会科学によって推測されます。

F慰安婦問題 
 慰安婦問題では戦争責任や女性の人権に関する価値観の要素が強くなっていますが、事実判断が土台であるのは明らかです。韓国人の多くは日本に対するネガティブな『思い』から、「20万人の無垢な少女が強制連行されて性奴隷となった」(一部の人々はさらに「18万人が虐殺された」)と判断して日本を激しく糾弾してきました。しかし、もともとはひどく心を痛め謝罪するつもりでいた日本人も「そこまではないだろう」と反発し、批判を一切無視する頑なな態度になってしまいました。また、戦争責任・人権問題として冷静に論じ合う人々の間にも(たとえ日本政府批判の立場は同じでも)深い溝があるのは、前提となる事実判断にもずれあるからでしょう。このようなことから両国、特に韓国の損失は大きなものになりました。
 朝日新聞社は反軍国・反歴史修正主義などの『思い』から、「木剣をふるい無理やり連行した」との吉田証言を検証もせずにたびたび報道してしまいました。しかし、捏造が判明し記事取消しの事態となったため朝日新聞社は非難の的となり、慰安婦問題自体がなかったかのような論調まで広がってしまいました。

G大東亜戦争・ベトナム戦争
 大日本帝国(軍部と教化された国民)はアジア諸国を欧米列強の植民地支配から解放すべきとの『思い』から無謀な戦争に突き進んでしまい、結局はアジア諸国に大変な迷惑をかけ日本も苦しみました。
 米国は共産主義化の連鎖(ドミノ理論)への怯えという『思い』からベトナム戦争に介入してしまい、同様な事態を引き起こしました。「大東亜共栄圏が実現可能」「ドミノが深刻」「戦争に勝てる」などの誤った事実判断がこれらの悲劇の元となっています。

以上のように幅広い案件で事実判断は土台となっており、『思い』問題が深刻になっています。


ちなみに、上記Eで「社会的事実は社会科学で推測される」としましたが、一般に社会科学系の学者は、自然科学系に比べると事実の重み、事実判断の厳正さに甘さがあるようです。そして、その甘さを科学的事実にまで持ち込んでしまう場合があって、これが問題をこじらせます。また、島薗様や影浦峡氏はじめ一部の人文(科)学系の学者では、この傾向がさらに顕著になっているように思えます。(専門家の発言

 

2 「『思い』過剰/“思考”希薄」での事実判断

生命の危険回避にとって不可欠な「心配」も過剰になると恐怖症などの弊害が現れるのと同じように、人間性にとって不可欠な『思い』が過剰になると事実判断ミスが誘発されて実害が発生します。そこで、このような普遍的観点で、「『思い』過剰/“思考”希薄」での事実判断について掘り下げを行ないました。
 なお、事実とは「実際に起こった事柄、あるいは将来起る事柄で、そのことが根拠によって共通了解されるもの」としています。

1)『思い』とは  

『思い』とは、表1に示した“感情”“気持ち”“意識”“価値観”の各要素が支え合って渾然一体となった心の状態です。

『思い』はその人の個性や人間性を形作るものなので、その点では貴重で価値があるものの、感性的・情緒的であって漠然としています。熱く高揚しやすい面、アイデンティティと結びついて大変強固になりやすい面もあります。実際の案件で想定される『思い』を表2に整理します。

一方、“思考”とは、ものごとを理解し推測する心の活動であり、その人の知的能力となります。精緻で論理的であって、冷静沈着で一貫性があります。

 

なお、従来では「情念」と「理性」を対比させる考え方が一般的ですが、本書簡では『思い』と“思考”を対比させています。実際、被曝被害や上記案件の当事者は「情念」が強めではありますが、「情念」だけに支配されているとも「理性」を全く喪失しているとも思えません。そこで、ポイントと考えられた“意識”“価値観”と従来の「情念」(ここでは“感情”“気持ち”)をまとめた『思い』という概念を設定しました。

 

2)判断における『思い』と“思考”

さまざまな判断が『思い』と“思考”によって行なわれます。図1にイメージを示しました。なお、図中の破線による分け方は、従来の「情念」vs「理性」です。                         

                   
                      

当然ながら、『思い』と“思考”の比重は事実判断か価値判断かで大きく変わります。事実判断の場合には両者が完全に独立しているのは大前提として、精緻で論理的な“思考”が支配的となり『思い』はわずかなものになるはずです。しかも、その『思い』は、「ミスは大問題を招く」「ミスは絶対にしない」など真実をめざすような誰にとっても正しいもの、いわば公的なものとなるはずです。図2の上半分にイメージを示しました。

卑近な例では、株銘柄を選ぶ時には「儲けたい」という自分勝手な(私的な)『思い』も必要でしょうが、それが度を越すと欲に眼が眩んで失敗します。また、気の利いたCMで会社に好感を持ったからとして、その株を購入する人もいないでしょう。会社情報や経済動向に関する様々なデータの冷徹な分析・検討(“思考”)によって決断するはずです。

 

一方、価値判断の場合には、“価値観”だけでなく“感情”“気持ち”“意識”を含む『思い』が支配的となり、“思考”は事実に関するわずかなものだけになるはずです。図2の下半分にイメージを示しました。

結婚相手を選ぶ時には相手のデータをいくら詳細に分析・検討しても答えが出るはずもなく、自分自身の『思い』に従うのみです。「あばた」か「えくぼ」かの“思考”は無意味で、「えくぼ」と見なす『思い』にこそ意味があります。   

               

3)「『思い』過剰/“思考”希薄」での事実判断

しかしながら、実際には、事実判断であるにも関わらず「『思い』過剰/“思考”希薄」となってしまう場合がしばしばあります。この時、“思考”は肥大した『思い』に覆われてしまい、自分勝手な『思い』によって判断が行なわれてしまいます。図3にイメージを示します。


ここに至るプロセスは次のように考えられます。
   @『思い』が過剰になるにつれて、『思い』は自分勝手なものに劣化する。
   A 劣化した『思い』に影響されて(覆われて)、“思考”が十分に機能しなくなる(希薄になる)。
   B 希薄した“思考”では抑えが効かないので、『思い』の劣化と肥大が進む。
   C 結局、「自分勝手な『思い』」、「『思い』に覆われた“思考”」、および「『思い』の劣化・肥大」が
    互いに原因結果となって強まっていく。

 

このプロセスを促進する要因がいくつもあります。

・人は誰でも、論理的でややこしく温かみの欠ける“思考”よりも、感性的・情緒的で単純な温かみのある『思い』の方に心惹かれる。

・知的レベルとは無関係に、誰でもが容易に「自分勝手な『思い』に覆われた“思考”」になってしまう。
これは、「科学の進展は、(頑迷となってしまった大御所の)葬式ごとに進む」との格言(マックス・プランク、物理学者)、およびスティーブ・ジョブス(アップル創業者)など知性の高い人々が怪しげな代替治療に嵌ってしまう例などからも明らか。

・「『思い』過剰/“思考”希薄」自体がポピュリズム(大衆迎合)やヒューリスティック(直感で素早く答えに到達する方法)に親和性があって、とても根強いものがある。

・『思い』はその人をその人たらしめているものなので、本人は「自分勝手な『思い』」もプラスと考えてしまう。
さらに、『思い』がアイデンティティとなっている人も多く、彼らにとってその『思い』は絶対的なものとなっている。

・「自分勝手な『思い』」をマイナスとは考えないため、「自分勝手な『思い』に覆われた“思考”」が問題であるとは感じられない。あるいは、まともな“思考”がすでに失われているため、「覆われた」こと自体に気がつかない。

・社会的活動では厳しい批判・非難を受けることが多く、その反発が「『思い』の劣化・肥大」を加速する。
特にアイデンティティが脅かされそうになると、防衛本能によって暴走状態にもなる。(「その一」図1)

 

3. 引き起こされる事態

「『思い』過剰/“思考”希薄」によって引き起こされるのは「質の低迷」、つまり信憑性の低い自説を絶対化し『思い』に照準を合わせた情報戦に躍起になっている事態ですが、図3のような状況であればそれも当然なことと言えるでしょう。
 また、この「質の低迷」にはいくつかのパターンがありますが、そのうち特徴的なものは「連鎖」と「不毛な対立」であって、事実判断で特に深刻となっています。これらについて説明します。

1)連鎖

全く別の案件であるにも関わらず、常に大した検討もなしに同傾向の判断をする人、あるいは「別の意図のために利用しているだけ」のようにしか見えない人がいます。それは単なる怠惰・もくろみの場合もあるでしょうが、多くは「『思い』過剰/“思考”希薄」が原因となっています。(あるいは、これらが混じりあっています)

ある案件での劣化・肥大した『思い』はその人の心に沈着するので、それがそのまま別の案件における『思い』にもなります。そして、本来は中身が異なるはずの“思考”がその『思い』に覆われたものになるため、結局は同傾向の判断になってしまいます。これが「連鎖」です。

例えば、被曝被害が深刻との『思い』が原発は撤廃すべしとの判断になりますし、逆に、原発撤廃の『思い』が被曝被害は深刻(脱被曝)との判断になります。また、反原発活動での政府憎しとの『思い』が安保法制や子宮頸がんワクチンで政府方針反対との判断になります。実際、脱被曝・反原発・反安保・反ワクチンがセットになっている人が多いのですが、これは偶然ではないでしょう。

 

また、一個人内ではなく他人との間で「連鎖」が発生することによって、集団構成員が同傾向の判断をするようになってしまいます。例えば、政治的信条と科学的事実の判断には関係がないはずですが、被曝被害での危険寄りの人々は大半が左派ですし、地球温暖化に懐疑を抱く米国人は、注目を集めはじめた20年前には偏りがなかったのに今では共和党支持者が民主党支持者の2倍にもなっています。

 

2)不毛な対立

 判断を異にする人々(集団)の間で「不毛な対立」になってしまうことはよくありますが、この多くも「『思い』過剰/“思考”希薄」が原因となっています。

図3のような状況であれば、対立者からどんなに理詰めで丁寧な反論をもらっても“思考”は反応せず、馬耳東風となります。むしろ、自分の大切な『思い』も理解できない輩だとして、対立者に対する軽蔑・敵愾心などのネガティブな『思い』があらたに加わります。一方、その対立者はこのような態度を見て、同様に相手に対するネガティブな『思い』が付加されます。
 これによって両者が没交渉となるケースも、対立が燃え上がるケースもあります。(被曝被害はネットでは燃え上がっていますが、肝心の学術レベルでは没交渉) 燃え上がっている場合には、議論(科学論争)が活発に行なわれているようにも見えますが、実際にはそれぞれの「自分勝手な『思い』に覆われた“思考”」によるレベルの低い言い争い、『思い』の代理戦争でしかありません。そして、そこでの泥仕合・誹謗中傷合戦が両者の「『思い』過剰/“思考”希薄」をさらに加速するという悪循環になります。まさに「不毛な対立」です。

例えば、レイチェル・カーソンの著書出版後、化学産業界はカーソンと激しく対立しましたが、それは個人(人格)攻撃まで含む「不毛な対立」になっていました。化学産業界側は、恐らく「化学薬品は世の役に立つはず」(“価値観”)、「そのために努力している我々を侮辱している」(“感情”)、「妄想家による売名行為」(“気持ち”)、「会社がつぶされる」(“意識”)などのような「自分勝手な『思い』」に振り回されてしまったのでしょう。このために、かえって世論を敵に回してしまった面もあると思います。
 もし、化学産業界が「自分勝手な『思い』」を封じ込めて、本来の緻密で論理的な“思考”による研究を徹底させてDDTのリスク定量評価に成功してさえいれば、あのような悲劇は起らなかったはずです。この点では悲劇の責任は化学産業界の方が重いとも言えますし、本当に憎むべきは「不毛な対立」自身、さらにはそれを生み出した両者の「『思い』過剰/“思考”希薄」とも言えそうです。

 

また、集団間での対立で「連鎖」に関連して気をつけなければならないことがあります。生存本能を持つ集団は密かに自集団に有利な『思い』を広めます。その典型は「わが集団は正義で無誤謬」「対立する集団は悪者で間違いだらけ」です。このような『思い』が定着すれば、どんな怪しげな判断であっても集団内では絶対の権威を持ち、集団は強固になります。この究極はカルトですが、どのような集団でも多かれ少なかれこのような要素を持っています。

 

4. 「『思い』過剰/“思考”希薄」の解決

深刻な『思い』問題のキーとなっている「『思い』過剰/“思考”希薄」の解決が強く望まれます。そこで、きわめて初歩的ではありますが、以下に解決策を提案します。

1)「異論検討」「真摯な議論」
 「その二」で示した「異論検討」(対立者の意見を冷静・慎重に検討する)と「真摯な議論」(対立者と真摯で建設的な議論を行なう)こそ究極の解決策になるはずです。なぜなら、それらを徹底すれば必然的に図3の状況を矯正せざるを得なくなり、「質の低迷」が排除されて「正しい事実判断」により近づくことが出来るからです。
 究極なのは原理的で当然なことだと思いますが、少なくとも「異論検討」「真摯な議論」が“真実追求の鉄則”であり解決策として有効であることに異を唱える人は誰もいないはずです。

そこで、どうすれば当事者が「異論検討」「真摯な議論」に真剣に取り組むようになるか? が実際上の難題となります。
 そのためには、第一に、「『思い』問題をなんとか改善せねば!」との動機づけが必要で、これには上述した『思い』問題の深刻さをしっかりと理解するしかありません。

第二に、「自分勝手な『思い』に覆われた“思考”」の解消が必要で、これには進化論を頭から否定しない一般クリスチャンの考え方を理解することが有効です。創造論者は創造論を絶対的真理とし、対立する進化論は信仰を否定する嘘と決めつけているのに対して、一般クリスチャンは聖書にある創造物語は信仰の真実として信じつつ、進化論は科学的真実の可能性として認識しています。そして、信仰上での真実には科学的根拠は不必要とするとともに、科学的な真実には科学以外のなんの意味付け(信仰否定など)もすべきでないと考えています。
 このように「信仰の真実」vs「科学的真実」、「信じる」vs「認識する」をしっかり区別することによって、科学的真実(事実)を尊重するとともに自分の信仰(『思い』)を大切にしています。(敢えて言えば、科学的真実に背を向ける愚、自分の信仰を事実レベルに貶める愚のいずれをも乗り越えています)

第三に、自然科学者は当たり前のように「異論検討」「真摯な議論」を“真実追求の鉄則”として徹底させているので、以下に示した彼らの考えを理解することも有効です。
 @ 一個人や一集団の知識・能力には如何ともしがたい限界があることをしっかりと認識している。
   (自然はなかなか本性を見せないので、確信していた自説が突き崩される痛い目に何度も遭っている) 

A 「真実のみをめざす」「事実に忠実・謙虚」に強いアイデンティティを持っている。
   (仮にもデータや論理の厳正さに緩みが生じてしまうと、自らこのアイデンティティに脅かされる) 

B 「嘘は身を滅ぼす」を肝に強く銘じている。
   (故意ではなくても、いい加減な主張が科学者として命取りになることを熟知している)

以上のことは、島薗様ら当事者が自ら努力していただかなければなりません。よろしくお願いいたします。

 

実は、当事者が否応なしに「異論検討」「真摯な議論」に取り組まざるを得なくなる決定策もあります。それは、「“真実追求の鉄則”の軽視が強く批判される社会」を創ることです。すなわち、「異論検討」「真摯な議論」ではなく、「断片的で根拠の薄い主張の言いっぱなし」「反論の無視・曲解、揚げ足取り」「一方的勝利宣言」などを繰り返している者は、その結論や主張に一切関わらず、必ず世論(一般の人々)から厳しく批判される社会を創るのです。
 「民主主義の軽視が強く批判される社会」は、現在すでに創られていますが、これと同じことです。

一般の人々にとって議論の結論や主張の妥当性を判断するのは難しくても、「異論検討」「真摯な議論」がなされているか否かを判断するのは容易です。また、このような批判こそ、専門知識も権限も持たない一般人が当事者の事実判断ミスによる実害を未然に防ぐ(実害から身を守る)手段となります。
 「ものごとが権力や暴力で決められていた社会」から「市民の話し合いで決められる民主主義の社会」に進歩できたのは、長年にわたる市民の小さき声の積み重ねのためですが、これと同じことです。

 多数の一般人に『思い』問題の深刻さと「異論検討」「真摯な議論」の重要性を理解してもらうのは容易ではないのですが、本人が『思い』に陥っていない点では当事者よりハードルが低くなっています。そのため、現代の高度なコミュニケーション環境にも助けられて、民主主義社会の実現ほどは苦労せずに“真実追求の鉄則”重視社会を実現することが出来るはずです。特に最近では小さな「嘘」(真実放棄)も厳しく批判されるようになってきていますので、あともう少しの努力かも知れません。

 

2)学問的なアプローチ

解決策の参考になると思われる従来の学問的な知見は数多くあります。観点・学問別で表3にまとめました。

 

 このうち心理学や科学・哲学の分野では「正しい事実判断」に関わる検討がなされており、特に認知バイアス・科学リテラシー・クリティカルシンキングの観点から実効的な解決策も提案されています。しかしながら、「『思い』過剰/“思考”希薄」としての考察が不十分なため、どうしても隔靴掻痒の感は拭い切れません。

一方、宗教学ではそのような検討はありませんが、蓄積された『思い』に関わる深い知見がありますので、これらを応用することによって新しい解決策が生まれてくる可能性があると思います。

 

3)人間研究のテーマとして

「『思い』過剰/“思考”希薄」は人間の本性に関わる本質的・普遍的な問題であり、多くの学問とも関わりがあるにも関わらず、今までそれ自身を対象とした本格的な研究は存在していません。本来なら、総合的な人間研究の学問(人間学)での大きなテーマになるべきものと考えられます。

本書簡では対象を「共通了解される事実」の案件に限ってきましたが、これは過程と結果が明瞭だからでした。そこで、この新たな研究としては、第一段階ではこのような案件に限定すべきでしょうが、第二段階では「共通了解されない事実」の案件にまで拡大すべきと思われます。
 例えば、延々と紛糾が続く歴史認識問題には「『思い』の劣化・肥大」「自分勝手な『思い』に覆われた“思考”」の観点からの、あるいはナラティブvsエビデンスや質的研究vs量的研究のせめぎ合いがある医療・心理学分野には『思い』vs“思考”の観点からの切り込みが有効となるはずです。


 さらに第三段階としては、価値判断も含めた判断全般の案件まで拡大すべきと思われます。例えば、自殺は明らかに誤った価値判断であり、「自分勝手な『思い』に覆われた“思考”」によってその誤りすら理解できなくなってしまったわけです。同じように誤った価値判断によって多くの人々がオウム真理教やナチに共鳴して大きな悲劇を招きましたが、今後はイスラム国はじめ類似の問題がさらに深刻化しそうです。これらに対して本研究はなんらかの貢献が出来るはずです。
 なお、これには宗教学が重要となり、新たに倫理学も必要になるでしょう。

ここまで極端ではなくとも、「生きる(あるいは、命・人生・人間・社会・国家・民主主義etc)とは***である(べき)」などのような本質的な判断においても「自分勝手な『思い』に覆われた“思考”」が望ましくないのは当然です。また、これらの判断をより一般的に、より精緻に検討するのが学問なので、本研究は様々な本質的判断や学問の質の向上に寄与することになります。

 

5. 島薗様へのお願い

島薗様らの社会的活動での「『思い』過剰/“思考”希薄」(「その一」での“思い込み”)は、日本の将来に何をもたらすでしょうか? 「その二」で示された具体的な実害だけではなく、より深刻な影響を広範に継続的にもたらすと思われます。つまり、被曝被害は日本中の関心事ですし島薗様は日本の知性とも言える著名な識者ですので、少なからずの人々が島薗様らの「『思い』過剰/“思考”希薄」をしっかりと学習し、将来、様々な場面でそれを応用・実践することになるでしょう。
 この点で島薗様は大きな責任を問われることになり、このままでは反面教師とされているご祖父の田宮氏と同じように歴史にマイナス評価を残してしまうことになると思います。しかし、「その一」で示したように田宮氏はある“思い込み”(「『思い』過剰/“思考”希薄」」の究極)に躓いただけですので、(反科学・反権威などよりも)同じ轍を踏まないための反「『思い』過剰/“思考”希薄」こそ、島薗様がご祖父から得るべき貴重な教訓だと思います。

そこで、島薗様にぜひともお願いしたいことがあります。上記に示したような「『思い』過剰/“思考”希薄」に関する本格的な研究に取り組んでいただけないでしょうか? 宗教学をご専門とし倫理学にも造詣の深いベテラン研究者として、また究極の“思い込み”にまで陥った体験者として、本研究にはまさに適任ではないかと思われます。なお、本研究は、島薗様ご自身のご専門や様々な分野のご発言にも寄与するところがあると思われます。
 本研究によって「『思い』過剰/“思考”希薄」の解明が進み解決策が確立されれば、これは人類にとって大きな福音となります。このためにこそ先生の卓越した能力とパワーを使っていただけないでしょうか? 

                                                                                 草々