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雑感 低線量被曝 F-200
内部被曝に関する講演会 2012.11.29
福島原発事故による内部被曝に関する講演会があって参加しました。講師は被曝の深刻さを訴え国・県の対策を批判する、いわゆる危険側(慎重側)に立つよく知られた医師でした。1時間半にわたり何十枚ものスライドを使って、内部被曝による被害が発生する可能性が高いことを力説しておられました。
しかし、最近の甲状腺検査での35%の“のう胞”保有率については、多くの危険側論者がチェルノブイリでの0.5%と比較して福島がチェルノブイリ以上に汚染されたと主張するなか、「検査機器の進歩や検査基準の違いがあるのでなんとも言えない。同条件での非汚染地域の結果と比較する必要がある」とおっしゃっていました。科学的事実に関しては冷静に客観的な判断をされており、信頼できる方と感じました。
ただ、私が残念に思ったのは、関係者やネット上では良く知られている「保育園給食のセシウム検査」(注 以下、給食検査)について講演で全く触れなかったことです。給食検査の結果は食品からの内部被曝が非常に少ないことを示唆しており、多くの人々がこれを根拠のひとつにして「内部被曝はもう心配しなくてもよいだろう」との考えになりつつあります。
しかし、私としては、そこになんらかの問題点、つまり落とし穴となるような欠陥・弱点・限界などはないのだろうか、と懸念しています。サンプリングの普遍妥当性や測定の信頼性に問題があるかも知れませんし、この結果をどのように解釈すべきかにも問題があるはずです。例えば、放射性カリウムより小さければ被害はないのか? 他核種は無視してよいのか? 食品全体に一般化してよいのか? 内部被曝全体にまで一般化してよいのか? などに関して確かなことは言えないはずです。
何らかの意見を主張している当事者は自説の問題点に気づきにくいですし、もし気づいていても、(意識的に、あるいは無意識的に)無視してしまうことが多いです。このような場合にこそ、その主張に反対する者の存在意義があります。もし給食検査に何らかの大きな問題点があるのにそれを知らずに多くの人々が安全側に同調してしまえば、それは被曝被害を受ける人々にとってはもちろんのこと、危険側陣営にとっても、また安全同調者にとっても、さらには県民・国民全体にとっても不幸なことになります。このようなことが起きないように、講師には給食検査の問題点を示していただきたかったのです。
残念と感じた理由がもうひとつあります。当事者が自説の問題点に弱いのは、もちろん危険側においても同じです。その点で給食検査は危険側にとって大変ありがたい試金石となるはずです。給食検査が全く無意味であればそれでよいのですが、もし自説とは相容れない事実が給食検査で証明されてくれば、それによって自説をより適切なものに修正・発展させることが出来ます。このような機会を逃すことは、先とは反対の形で、風評被害を受ける人々、危険側陣営、危険同調者、そして県民・国民全体を不幸にすることにもなりかねません。
要するに、私としては”健全な信念対立”のメリットが生かされないことが残念だったのです。
そこで、何かお考えがあるのかと思い、講演終了後に講師に直接お尋ねした所、逃げの感じで、「(給食検査については)よく知らない、よく分からない」、そして「早野さんは御用学者だから・・・・」とおっしゃいました。本当に、本当に、本当に残念なことでした。
注) 「保育園給食のセシウム検査」(給食検査)
東大理学部の早野先生が中心になって、南相馬市立保育園において今年4月から継続的に行われている事業で、一週間分の給食をまるごとミキサーですりつぶして高感度の測定器にかけるものです。
朝日新聞への投稿文
朝日新聞の声欄に投稿した一文が残念ながらボツとなったようなので、ここに掲載します。
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被曝被害のもったいない
水野参事官の出席した集会では参加者の罵声に驚かされました。彼らは福島の子供に嚢胞が多数見つかったことで危機感を募らせていましたが、なんと翌日には他県の方が多かったとの政府発表がありました。参事官はこれを知っていたので知性云々との暴言になったのかも知れません。
官僚が被曝被害を予見しながらその対策を怠ることはないでしょう。被害が出れば必ずメディアに追及されるからです。基本的には参事官と参加者では被害についての事実認識が異なるに過ぎません。そして、このような濃い霧に覆われた事実では、誰でもそのごく一部がぼんやりと見えているだけです。本当の姿に迫るためには、相互信頼に裏付けされた真摯で精緻な議論が不可欠なのですが、あの罵声・暴言では絶望的です。
被曝被害の他の対立でも似たような状況です。こうして本当の姿からずれた認識のままで事が運ばれていけば、将来被災者は新たな被害を受けてしまい、その責任は対立する両者が負わなければなりません。被災者も自分たちも傷つける恐ろしい事態です。
これを回避してくれる仲間がいます。被爆被害に関心を持ち、自分に欠けている考え方や情報を持ち、自分の問題点を鋭く指摘してくれる人物、・・・何のことはない目の前にいる対立相手です。彼らを有効利用しないのは実にもったいないことです。
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550字の制限のなか、ついつい本サイトで言いたいことほとんどすべてを詰め込んでしまいましたので、分かりにくいものになっているようです。反省しています。
本サイトを見ている方には趣旨はご理解していただけると思いますが、導入部について補足説明をいたします。
水野参事官のことは覚えていらっしゃいますか?
2013.6.21の産経ニュースによると「復興庁は21日、短文投稿サイトのツイッターで東日本大震災の被災者支援団体や被災自治体への暴言を繰り返していた同庁の水野靖久参事官(45)を停職30日の懲戒処分にすると発表した。(略)水野参事官は3月、被災者支援の市民団体が開いた集会に参加後、ツイッターに「左翼のクソどもから、ひたすら罵声を浴びせられる集会に出席」などと書き込んだ。(略)水野参事官は総務省出身で、昨年8月から復興庁に出向していた。」となっています。
3月7日の集会に私はたまたま参加していました(YouTubeにちらっと写っています)が、その集会はまさしく“不毛な信念対立”のひとつの見本のようなものでした。
当時、福島のこども約40%の甲状腺にのう胞が見つかり、これは従来データに比べてかなり高率だったので不安が高まっていました。その頃来日していた米国の反核運動家で小児科医であるカルディコット女史も、“極めて稀な数値”と強い警告を発していました。しかし、翌3月8日には、青森・山梨・長崎での同水準の調査では56%だったとの結果が環境省から発表されました。つまり、高率だったのは従来に比べて高性能な機器にて丁寧に調査したからであって、のう胞に関しての糾弾は無意味だったのです。
復興省は環境省とも密に連絡を取っているはずで、集会には環境省の官僚も出席していたので、水野参事官はこの結果を知っていた可能性が高いと思います。そうだとすると、先の「左翼の・・」の続きの「不思議と反発は感じない。感じるのは相手の知性の欠除に対する哀れみのみ」も彼の気持ちとしては分からないではありません。しかし、彼はこれらの「暴言」によって降格、大阪に飛ばされて給与も2段階引き下げられたそうです。
空振りだったのう胞騒ぎで糾弾側は世論の信頼を落としましたが、当局側も痛い目にあったわけで、事実認識ズレから起きる不毛さを象徴的に示しているように感じました。
勇気がいる
2014年1月12日、北海道がんセンター名誉院長の西尾正道氏が、福島での甲状腺がんの現状について講演なさいました。西尾氏は福島原発事故による被曝被害の危険性を訴える活動を精力的に行なっており、いわゆる危険派医師の代表格とも言えます。また、主催者(原子力市民委員会)と場所(都内)から考えて、聴衆は恐らく「原発撤廃」の支持者で、しかも「深刻な被曝被害」があると確信する人々、いわゆる危険派市民が主だと思われます。 注)
講演の様子は http://www.youtube.com/watch?v=rsqNO6sJkJo で確認できます。(西尾氏は9〜30分)
西尾氏は「今、甲状腺がんが多発していると騒いでいますが・・・、実は、それとは全く異なった話しになります」「こういう話しをするのは『皆さんの前では、なかなか勇気がいる』」と切り出した後、本題に入りましたが、結論は「現時点では甲状腺がんは多発しているとは言えない」でした。その根拠も詳しく説明されましたが、それは従来から安全派医師(西尾氏が厳しく批判していた安全派医師)が示していたものと全くと言ってよいほど同じでした。
私は、今までとは論調の異なる内容に驚きましたが、それよりも冒頭の「皆さんの前では、なかなか勇気がいる」との発言が大変気になりました。
「勇気がいる」のは、聴衆である危険派市民が自分の話しに反発すると感じたからでしょう。それなら、なぜ、危険派市民は反発するのでしょうか?
単なる認識や理解とは違って、確信やそれが高じた『信念』には自分の“思い”が入りやすくなっています。個人の価値観で決まるような信念には“思い”が入って当然ですが、“思い”とは本来無関係であるべき客観的な事実に関する信念であっても、実はその傾向があります。価値観による信念は死刑制度や中絶・同姓婚の是非など、一方客観的事実に関する信念は地球温暖化人為説や南京大虐殺・従軍慰安婦の有無あるいは進化論/創造論などが代表例となりますが、後者においても感情的で不毛な対立が続いていることから、ここにも “思い”が入っていることは容易に想像することができます。
今回の講演に関連する原子力関係で言えば、価値観による信念は「原発撤廃/存続」であり、客観的事実に関する信念は「被曝被害」となります。この後者で、危険派市民は「今、福島で甲状腺がんが多発している」と確信し、それが自分の“思い”と一緒になって『信念』になってしまっていると思われます。そして、人間であれば自分の“思い”に沿わないものに反発するのは当然であり、今回の西尾氏の話しはまさにそのものでした。
豪放とみえる西尾氏をして「勇気がいる」との弱気の予防線を張らしめたのはこのためでしょう。
しかし、それにしてもあまりにもおかしなことです。危険派市民は自分たちの『信念』を支える知識を西尾氏などから得ていたのに関わらず、今回はその西尾氏の新しい話し(より正しい客観的事実)に反発しそうなのです。ずぶの素人が専門家に反発するという不可思議です。
一体どういうことでしょうか? もう少し掘り下げてみたいと思います。
(問題点を浮きぼりにするために、以下、強引な単純化・類型化とアナロジーによる独断にて論を進めます)
全く別の信念である「創造論」を手がかりにします。クリスチャンは自分たちが拠って立つべき基盤を聖書に置いている人々ですが、そのうち聖書を一字一句字義どおりに信じる人々が創造論者となっています。日曜学校や家庭で教えられるまま信じているのでしょう。彼らにとって聖書と創造論は一体ですので、万が一、創造論の誤りが証明されたら自分たちの「アイデンティティ」は喪失してしまいます。それは絶対にあってはならないことです。
この<アイデンティティ喪失の危惧>のような彼らの“思い”は強い『信念』(聖書と創造論はともに真実)から生み出されるのですが、一方、その“思い”が『信念』を一層強固なものにすると言う面があります。また、当然ながら “思い”自体には何の問題もなく人間として自然なものですが、“思い”に影響された態度・行動は不適切になりやすいのです。特に、客観的事実に関する信念ではそれが際立ちます。
生命の起源は紛れもなく客観的事実なのですが、彼らはこれらに対して本来あるべき理性的・合理的な態度を放棄します。実際、創造論の知識は無条件に受け入れる一方で、創造論に反する証拠はどんなに明快なものでも問答無用で拒否します。これには、<アイデンティティ喪失の危惧>の“思い”が駆動力となっています。
さて、上記創造論に関する文章で
・聖書 →「原発撤廃」
・創造論 →「深刻な被曝被害」
・創造論に反する証拠 →「今回の西尾氏の話し」
と読み替えてください。危険派市民の状況が見えてくると思います。
これによると、一部の危険派市民は下記のような状況になっていると思われます。
1)特定な情報のみを得ているため「深刻な被曝被害」を確信し、それが『信念』のようにもなっています。
そして、<アイデンティティ喪失の危惧>などの“思い”が生じます。
2)<アイデンティティ喪失の危惧>によって、本来あるべき客観的事実に対する理性的・合理的な態度を放棄し、自分の『信念』に沿わない客観的事実を根拠なしに拒否するようになります。
さらに、もし本講演の聴衆のように「原発撤廃」の支持者でもある危険派市民では下記のようになっている可能性があります。
0)本来は区別すべき「原発撤廃」と「深刻な被曝被害」の信念を関連化させています。
1)、2)は上記と基本的には同じですが、価値観が反映された「原発撤廃」の信念が入るので事態はより深刻となります。
具体的には、
1)では、「深刻な被曝被害」との『信念』がより強くなり、“思い”がより熱くなります。
そこでは、『信念』と“思い”がハウリングして互いを増強させています。
2)では、感情的なネガティブ行動も出てしまいます。(西尾氏が恐れた反発)
恐らく西尾氏もこれを感じ取っていたので「勇気」を必要としたのでしょう。
注-1) 危険派・安全派などについては 論考 原発災害シンポ 2 を参照
罪作りな“思い” 2014.3.31
前章では、「深刻な被曝被害」との『信念』を持った危険派市民は、<アイデンティティ喪失の危惧>から自分の『信念』に沿わない客観的事実を感情で拒否することもある、としました。これは「創造論」のアナロジーから引き出されました。
「創造論」から引き出されるもうひとつは、<信念実践の使命感>による影響です。
これによって、危険派市民は「深刻な被曝被害」を過度に喧伝しており、煽っているとの批判すらあります。特に「原発撤廃」の信念を併せ持っている場合には、「原発撤廃」を訴えるため「深刻な被曝被害」を極度に強調するような策略を弄することもあるように思えます。
この<アイデンティティ喪失の危惧>と<信念実践の使命感>の“思い”は、守りと攻めの実に強力なコンビとなります。これが、客観的事実の拒否や自説の過度な喧伝などの不適切な態度・行動を招きます。
危険派市民は正義感あふれた真面目な人々なのに、彼らに不適切な態度・行動が見えるのは不思議に思えるのですが、これは彼らの“思い”から理解できます。 注)
当の西尾氏も当てはまるでしょう。今回の話し(多発なし)は以前より安全派専門家(西尾氏の言う御用学者)からたびたび示されていたものですが、西尾氏は今まで無視してきました。これは専門家として不適切と言わざるを得ないでしょう。
(講演の中では、「これは御用学者のデータ」と苦々しく言いながらも、それを使って今回の結論を導いていました。つまり、専門家なので客観的事実を拒否することは出来ないのですが、自分の“思い”としてはそれに同意できていないのでしょう。聞いていても、実に奇妙な話しぶりでした)
当然ながら安全陣営にもあてはまります。安全派専門家では自分の“思い”が従来学説の擁護につながり、また集団思考に陥らせることがあります。
安全派市民では被曝被害への無関心や危険派市民に対する嫌悪につながります。
本サイトのテーマである“不毛な信念対立”とこのような“思い”の関係を確認します。
つまり、このような“思い”は“不毛な信念対立”の要因になります。
詳しくは、客観的事実に関する信念では、当然ながら<アイデンティティ喪失の危惧>による客観的事実の拒否が直接的な不毛化要因となりますし、<信念実践の使命感>による自説の過度な喧伝も間接的な要因となります。
一方、価値観による信念では、両者がともに間接的な要因となります。客観的事実の拒否は無関係のように思えますが、価値観による信念でもいくつもの事実認識が前提となっているのでその前提事実が影響するわけです。
また、客観的事実に関する信念と価値観による信念が関連づけられている場合は、“思い”はより熱く、不適切な態度・行動はよりひどく、そして“不毛な信念対立”はより激しくなります。
図1、2に整理しました。
信念対立での “思い”は実に罪作りなものです。
さて、このような問題を回避するためには、どうすればよいでしょうか?
1)アイデンティティや使命感などの“思い”を、客観的事実の認識や自説の喧伝などに影響させない。つまり、“思い”は思いに留めること、
2)客観的事実に関する信念と価値観による信念を関連づけないこと、
がポイントとなり、いずれも当事者自身で実現可能なものです。
ただし、当然ながら、本人がそれを自覚して実行する意欲を持つことが大きな課題となります。
注) 問題となる“思い”としては、他に<信念への執着や承認欲求><自分の利害や自尊心><闘争心や相手への嫌悪>などもあるかも知れません。
小保方さんの嘘と信念対立の嘘 2014.3.31
STAP細胞を作成したとする小保方さんの論文は不適切な点が多いとして厳しく追求されています。現段階では、STAP細胞も含めて全くの捏造であったのか、あるいは立証方法のみに不手際があったのかは不明ですが、ここでは後者であるとして、この切り口から“不毛な信念対立”を考えてみたいと思います。
この後者だとすると、小保方さんとしては、「STAP細胞の作成に成功した」との信念を持っており、その信念故に「もともと真実なのだから、それを分かりやすく示すのに少しばかりの嘘があっても仕方ない」との意識があったと思われます。また、特許や競合の点で時間的に焦っていたかも知れませんし、この程度の嘘は誰でもやっているとの気持ちがあったのかも知れません。
(ご本人は悪意のある嘘ではないと主張されていますが、内容的にみて極めて不注意、あるいは未必の故意的な様相が明らかなので、やはり「嘘」と認定されても仕方がないでしょう)
問題発覚後も、小保方さんは事態の深刻さを理解できていないようで、批判に強く反発しています。恐らく、「STAP細胞実用化のこんな大事な時に、些細でどうでもよいことに文句をつけてきて・・・・」と憤っているのでしょう。
「信念故の嘘」は実にみっともないものです。
さて、信念対立においても似たようなことがありそうです。「被曝被害」に関する市民レベルでの信念対立で考えてみます。注-1)
この信念対立では、実際の被曝状況では被害はほとんどあり得ないとする安全派と被害は深刻とする危険派が、互いに相手を嘘つき呼ばわりしています。
そこで、両派の市民にお伺いしたいと思います。「小保方さんと似たような意識で、何らかの嘘をついたことはなかったでしょうか?」
(ただ、信念対立での嘘は、改ざんや捏造よりも考察や表現の問題が大きいでしょう。例えば、得られたデータからは本来「可能性を否定できない」程度しか言えないはずのものを、「可能性が極めて高い」と断定するようなことです。また、自説にとって都合の悪い事実(「不都合な真実」)を無視したり、根拠もなく否定することなどです。)
胸に手を当ててよく思い出してもらいたいのですが、嘘はなかったと言い切れる人は、程度の差はあるにせよ、ほんのわずかだと思います。
そして、嘘を指摘されても反省どころか、むしろ「人の命がかかっているのに、些細でどうでもよいことを攻撃してきて・・・・」と憤っているのではないでしょうか?
「被曝被害」は客観的事実に関するもので、その人の価値観・考え方とは無関係であるにも関わらず、両派の主張は真っ向から対立しています。このような事態に陥っている原因のひとつが、間違いなくこのみっともない「信念故の嘘」です。
小保方さんは、人類に大きく貢献するSTAP細胞を実現したいという高い志を持ち、それに向けて大きな努力をされてきたとは思います。しかし、嘘は絶対についてはいけなかったのです。
彼女の嘘によって日本の科学研究の信用は大きく失墜してしまいました。この損失は計りしれないのですが、これだけではありません。STAP細胞の結論が間違っていれば、小保方さんの信念は嘘に対する厳しい非難とともに幻と消え、そこには嘘の瓦礫が残るだけです。結論が正しかったしても、嘘による混乱でその証明・実現は大きく遅れてしまいますし、非難が帳消しにされるわけもありません。いずれにしろ、真理を遠ざけて、自分も他人も傷つけます。
「信念故の嘘」は実に恐ろしいものです。
嘘をつかないことは倫理なのですが、またそれは真理探究と人々の利益への知恵を示しているのです。
信念対立においても「信念故の嘘」は似たような問題引き起こします。むしろ対立状態のため、嘘の誘惑はより強く、問題はより深刻になります。嘘が混じっていれば、本来あるべき「議論による真理探究」は機能しようがありません。嘘が発覚すればその陣営の信用は大きく失墜し、たとえ真実の主張をしていても信用されません。
被曝被害の例では、互いに嘘つき呼ばわりをして議論どころではありません。被害の状況が明らかになるにつれて、嘘がいくつも指摘されはじめ、安全派・危険派ともに信用を失っています。注-2)
このため、被災住民は混乱に陥り、また分断されてしまっています。結論がどちらになるにしろ、彼らの命は文字通り危険に晒されています。注-3)
被災住民のためを思うあまりの嘘が、実は彼らを傷つけてしまうと言う恐ろしい事態を引き起こすのが「信念故の嘘」なのです。
両派市民の志と努力には敬意が払われるべきですが、嘘はそれを吹き飛ばすだけでなく、大変な被害をもたらすのです。しかしながら、当の本人は小保方さん同様このような自覚は全くないようです。
小保方さんの姿を鏡として、自分が何をしているか、それが何をもたらすのか、よく考えていただきたいものです。
注-1) 市民とは、被曝被害の専門家以外のすべての人を指します。多くの他分野研究者が被曝被害に関わって活躍していますが、ここでは彼らも市民とします。
注-2) 個人的には、危険派の方に嘘が多かったように感じています。そのため、世論が危険派の主張を無視し、安全派を全面的に信用するようになってしまわないかを心配しています。
注-3) 真実が分からないと、被災住民は不必要な避難による関連死、あるいは避難しなかったための被曝によるがん死に脅かされます。
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