論考    パンドラの約束
  F-5-0


概要

原発の是非に関する信念対立では、反原発派は「人の命よりも経済発展を重視している」「原発の危険性を理解していない」と、また原発推進派は「論理よりも感情や倫理性を重視している」「量や確率による判断が出来ない」と相手を批判しています。

ここで、「人の命よりも・・・」「論理よりも・・・」は“価値判断”(〜すべき)に、また「原発の危険性・・・」「量や確率による・・・」は「事実判断」(〜である)になっているのですが、どちらが対立の支配要因なのでしょうか?


このヒントになるのが映画‘パンドラの約束’に登場する反原発から原発推進に転向した識者たちです。彼らは広い視野で慎重に再検討した結果、『温暖化は原発なしに解決不可、温暖化は原発よりもずっと深刻』との「事実判断」に変更することになり、それに伴って「子孫に被害をもたらす地球温暖化に対処しないのは倫理に反する」「発展途上国が電気を享受する権利は守られるべき」との“価値判断”に至るようになりました。

つまり、“価値判断”は前提としている「事実判断」が変化すれば連動して変化するので、結局、対立の支配要因は「事実判断」となります。そして、「事実判断」は客観的で人によらず共通なので、議論によってレベルの上がったものにして相手と共有できるはずです。


しかしながら、実際には両派ともに、「事実判断」を自分の信念に整合させる「循環論法」や自分の“価値判断”だけで信念を形成させる「事実 << 価値判断」のバイアスを受けて、必ずしも正しい「事実判断」を行なっているとは言えません。

もし、自分の「事実判断」を一生懸命アピールし、それに沿った社会が実現したものの実際にはそれが間違いだったら、多くの人々を最悪な事態に陥れることになります。良かれと思っての行為が、結果的には重大な加害行為にもなってしまうのです。
 それでは、どうすれば正しい「事実判断」を行なうことが出来るでしょうか?


最も有効な方法は『事実に限定した対立相手との真摯な議論』です。『事実に限定』すれば、誰とでも議論が成立し、検証された根拠と明確な論理による結論には誰もが了解せざるを得ません。知識や視点が異なる『対立相手』は、自分の「循環論法」「事実<<価値判断」を気づかせ、議論を思いもよらない展開にします。そして、「自分の孫・ひ孫を苦しめてしまうことがないように!」との『真摯さ』が、この意義ある議論をしっかりと支えます。



 反原発派から映画‘パンドラの約束’に対する反論書が出ていますが、転向理由の変更された「事実判断」への反論はありませんし、再生エネルギーや健康リスクについて甘く偏った「事実判断」をしています。残念ながら、『事実に限定した対立相手との真摯な議論』からはほど遠いものとなっています。

 それなら、どちらの信念も持っていない人々、言わば「無信念派」が動くしかありません。「無信念派」は両派の「大切なお客様」であり、しかも「循環論法」「事実<<価値判断」とは無縁です。そこで、いろいろと工夫すれば、自分たちが仲立ちとなって両派に『真摯な議論』をさせることが可能なはずです。