雑感
     低線量被曝 -2  F-210


 
雁屋氏
(美味しんぼ作者)への手紙
 2015.4.16

   

雁屋様

 塩川と申します。恐れながら雁屋様にお願いしたいことがあり、お手紙を差し上げさせていただきました。

 関係者の多くが不利益となる不毛な信念対立は世にいくつもありますが、美味しんぼの鼻血問題はその典型になっているように思えます。

 美味しんぼで描かれている多くの事実はしっかりと裏づけがなされており、雁屋様のご主張は意義あるものとなっているのですが、残念なことにキーファクトのひとつである鼻血については裏づけが充分でないように思われます。

 鼻血の事実を関係者で共有できるよう、雁屋様主導でしっかりと検証していただけないものかと願っています。

 その結果、もし鼻血の正しさが確認されれば、間違いなく社会にとって大きな利益となります。被害拡大が食い止められ、放射線防護学は大きく発展するでしょう。

 万が一、鼻血が誤りであれば雁屋様のご主張は一部修正が必要となるでしょうが、キーファクトを共有した議論が進むことになると思います。

 もし、今のまま何もなされなければ被災者は混乱し、さらなる不利益を被ります。また、鼻血はデマ扱いされて、雁屋様や反原発派の主張が世から顧みられなくなってしまう可能性があります。これらは社会にとって損失になります。

 どうぞよろしくお願いいたします。

 

 以上が要旨になりますが、以下に詳しく説明をさせていただきます。

 “不毛な信念対立”

 私は元エンジニアの年金生活者ですが、世にあふれる様々な“不毛な信念対立”を懸念し、これを少しでも改善すべく細々とHP活動を行なっています。 

 雁屋様は反論本(「美味しんぼ『鼻血問題』に答える」)にて、「非難とか批判というものではなく、『美味しんぼ』という作品と私という人間を否定する攻撃だった」「感情的に、それこそ人々をあおり立てるだけで、鼻血と放射線の関係について、まともな議論をしない」と書かれていますが、これはまさに “不毛な信念対立”の症状です。後述の状況も合わせると、鼻血問題はその典型例になっていると思います。

 これは、“関係者”すべてにとって何も得るものがありませんし、新たに不利益を被る人々が出てしまう可能性も高くなっています。大変残念なことです。

 なお、“関係者”とは、直接の被災者だけでなく原発問題を論じる識者・研究者、反原発/原発推進の活動家・賛同者、さらには深く関与する福島県人や日本国民までを含んでいます。

 

キーファクト

 信念の基盤となるような重要な事実をキーファクトとします。その人なりの考え方や見解とは違って客観的事実であるキーファクトには真偽があり、それは科学的な検証によって確定されすべての人に共有され得るものです。

 しかし、“不毛な信念対立”では自分自身の正義感や思い入れ、および対立相手への反発などによる過度の高揚によって、自分の信念を押し通すことに大半のエネルギーをつぎ込んでしまい、肝心要のはずのキーファクトの検証が甘くなります。たとえば、さしたる根拠もなしに正しいと信じ込み、あるいは多少の疑問があっても自分の信念に都合がよいのでそのままにしています。

 その上、異なるキーファクトを持つ両者には世界はまるで違って見えます。同じ事実・現象に対してもその理解・解釈は大きく異なるので両者で論点はくい違い、まともな議論は成立しません。対立相手はヘンテコな異分子にしか見えず、いきおい感情的な対応や人格否定になってしまいます。

 異なるキーファクトが論点のくい違いや感情的な対応を生み、それがキーファクト軽視を生み、キーファクトの確定・共有を阻害するという悪循環です。


 本来であれば、キーファクトを皆で徹底的に検証して確定・共有した上で、その人なりの信念に基づく多様な主張をぶつけ合うような議論がなされるべきでしょう。この当たり前のことが出来ないのが“不毛な信念対立”の罠であり悲劇です。

 

「鼻血」

 美味しんぼ110・111号で描かれている事実の多くはしっかりとした裏づけがなされていると感じています。また、雁屋様の信念に基づくご主張は、私個人としては賛同しかねる点も多々あるのですが、今の社会の流れに対して異議申し立てをしている点で意義があるものだと思います。


 ただ、大変残念であり、またとても不思議なのですが、キーファクトのひとつであり、しかも今回の騒ぎの原因となっている「鼻血」(被曝起因の鼻血が福島で多発している事実)に関する裏づけはとても弱いと言わざるを得ません。

 証拠とされている岡山大調査は幅広い健康状態や慢性疾患の調査を目的としており、「鼻血」用としては適切ではありません。つまり、被災1年半後数日間での鼻血有無だけの調査であって、出血の程度・時期による変化・被曝量などが不明ですし、症例数が少ないため信頼性が低いものとなっています。
 その他の証拠である一養護教員の印象、福島ではないチェルノブイリの調査、自分の娘と友達に関する一個人の証言、および雁屋様ご自身の経験は、科学データとしては採用できないものです。
 一方、症例数が多い山田真先生のデータでは、福島よりも福岡の方が8倍も鼻血が多いとの結果になっています。また、相馬郡医師会による調査や相馬地方市町村会の調査でも「鼻血」はないとの結果になっています。

 ご自分の福島への思いや被災に立ち向かう福島の人々の姿、あるいはご自分への攻撃の酷さ、そしてご自分の信念に基づく主張に反論本の多くが費やされていますが、これらはとても重要なことではあっても、今批判されている「鼻血」の信憑性(特定の事実の真偽)とは全く無関係となります。批判への反論としては「鼻血」についての徹底的な検証、誰もが納得するような証拠の提示こそ不可欠です。


 これら論点のくい違いとキーファクトの甘さの点では、正直申し上げて雁屋様ご自身も”不毛な信念対立”の罠にはまってしまっているように思えます。


検証

 「鼻血」の検証は比較的容易だと思います。倦怠感などと違って鼻血は客観的に判定できるので、信頼性の高いアンケートによって充分な証拠が得られるはずです。基本的には、前述の岡山大調査の問題点を改善するだけでよいと思います。

 国が調査すべきとの声もありますが、生活協同組合や早野龍五さんの陰膳調査のように民間で進めるべきと思います。ぜひとも、雁屋様に主導的に動いていただきたいと思います。

 具体的には、雁屋様が世に広く呼びかけて賛同者から資金を集め、それを使って信頼できる中立の研究者に調査を依頼するだけです。結果の広報は研究者の学会・論文発表とそのニュースで充分でしょう。

 ご苦労はあるとは思いますが、少なくとも反論本ご出版よりご負担は少ないと思います。


 実はもう1ヶ所、検証をお願いしたいキーファクトがあります。 「第一原発の方から風が吹いてくると(線量が)あがってくる」(110号P72、反論本P44)です。この検証はもっと簡単で、数地点で1週間ほど、風向き・風力と線量の関係を計測するだけでよいと思います。

 

真偽が判明したら

 もし誰もが認めざるを得ない証拠によって「鼻血」の正しさが社会で共有されたら、このインパクトはとても大きなものになります。
 特に鼻血に深刻な健康被害が伴っている場合には、鼻血をバロメータにして被害の拡大が食い止められます。また、現在の医学で否定されている現象が発見されたわけなので、新たな内部被曝の実態(放射性微粒子の生成・拡散・取込み、「鼻血」のメカニズム、併発する疾患など)が明らかとなり、放射線防護学が大きく発展するでしょう。
 これらは“関係者”すべてにとって利益となります。(国や東電にとっても、被害拡大後に多額の賠償金を支払う事態を回避できる)


 あるいは、もし「鼻血」が誤りとなっても、これも“関係者”すべての利益となるはずです。雁屋様のご主張の一部は修正が必要となるでしょうが、決してご主張のすべてが崩壊するわけではありません。むしろ、それによる新しいご主張には信頼が寄せられるはずですし、キーファクトを共有した議論が進むことになると思います。

 

今のままなら

 最もまずいのが、今のまま検証がなされないことだと思います。

 その場合には第一に、被災者は帰還or避難の判断に悩み、決行したどちらかの人々の判断は間違ったことになって大きな不利益を被ります。
 第二に、「もうすぐ人がバタバタと倒れる」「日本に住めなくなる日 2015年3月31日」などと一緒に「鼻血」もデマ認定されてしまう可能性があります。これでは、雁屋様がせっかく見出した
(真実かもしれない)「鼻血」を自ら闇の中に投げ捨ててしまうことになります。
 第三に、世論は「鼻血」デマ認定の不信感から、雁屋様のご主張すべて、さらには反原発派の主張すべてを顧みなくなってしまい、その結果社会全体がご本意に反する方向に流れてしまう可能性があります。


 これらは、最終的には“関係者”すべてにとって損失になるでしょう。

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 以上が要旨にそったご説明となりますが、雁屋様に検証をお願いした背景をご理解いただきたく、また改めてのご発言を期待して、他事例を参考にして【原発問題において注意すべき】と私なりに考えたことを以下に示させていただきます。なお、注意すべき主体は“関係者”である我々です。

 

水俣病

 水俣病では患者発生から原因確定までに15年もかかって被害が拡大しましたが、これはチッソと国の隠蔽を含む消極姿勢とともに、研究者がメカニズム論争に囚われていたからです。また、熊本大が他地域でも類似疾患を発見し裏付け調査を計画していた所、国に主導権を奪われて結局は疑問を残したまま終結しています。(第三水俣病)

  原発問題で同じような失敗を繰り返さないため、我々が注意すべきことは下記となるでしょう。

【被害有無の予断は厳禁。うわさレベルでも見逃がさない】 (雁屋様の意義申立てに意義)

【メカニズム論争より事実(キーファクト)の確定・共有こそ先決】 (「鼻血」検証の必要性)

【事実の裏づけは誰もが納得する中立機関で行なう】 (雁屋様主導の必要性)

 

学術論争

 物理学会など学術組織での科学論争は真理探究の方法として大変洗練されています。そのポイントは、@厳正な証拠と明晰な論理によって結論を導くという「基本マナー」が徹底している。A「真摯な議論」の必要性が共通了解され、システムとして実行されている。B情報を「是正」するシステムが機能し、常に適正な情報が共有化されている、などと思われます。

 もちろん完全ではなく、たとえば学派間で結論が常に対立することも多々あります。両者の結論は様々な証拠と論理にしっかりと裏付けられたものであり、決してミスや虚偽があるわけではありません。
 結論が異なる理由は単純ながらも本質的です。証拠に確かに間違いはないのですが、チェリーピッキング
(多くの例から都合のよいものだけを選択)になっています。論理に確かに矛盾はないのですが、いくつかある筋道のひとつにすぎません。
 つまり、一応の客観性は守られていても、ある意向に沿った結論はいくらでも出てしまうのです。それだけ真理は奥深く、人間の知恵は浅はかということなのでしょう。
 しかし、それを自覚した上で@〜Bを徹底させた学術論争を地道に積み重ねることにより、立派な成果が築き上げられてきました。

 被害事実の確定・共有が先行されるべき(水俣病の教訓)ですが、それと同時に被曝メカニズムをはじめ様々な科学的事案について活発な議論が進められるべきです。その際、我々が注意すべきことは学術論争を見本にすれば下記となるでしょう。

【「結論が異なれば、即どちらか(相手)が嘘つき」と決めつけない】 (嘘よばわりは安易な逃げ) 

【自分の主張も浅知恵であり、真理探究過程での一歩にすぎないことを理解する】 (このことは真理)

【自分だけでも「基本マナー」と「真摯な議論」を地道に積み重ねる】 (いずれは相手も)

【同志であっても間違った情報は必ず「是正」する】 (反原発派での大きな課題)

 

創造論

 生物は今ある姿のまま創造されたとする創造論の証拠は、その小さな枠組みに限れば確かに否定しにくいものですが、そのような特殊例から最終結論を導くのは明らかにバランスを欠いています。一方、進化論への反論は、相当無理な理屈がこねまわされています。しかしながら、多くの科学者を含む創造論者はこれらの論拠に何の疑問も感じていません。
 これは彼らの強い信念(信仰)のなせる業であり、正常な科学的判断力が麻痺してしまっていると思わざるを得ません。もし将来、彼らが何らかの理由で信仰を失っていれば、彼らは昔の自分たちの論拠を理解することが出来ないでしょう。
 
(ここでは創造論を純粋な科学理論としています。なお、彼らは信仰の点では尊敬に値する人々です)

 原発問題でも同じ罠にはまっている人が多いように思います。そこで、我々が注意(確認)すべきことは下記となるでしょう。

【一時的に自分の信念や思い入れなどを棄却した上で、両者のキーファクトと論拠を虚心坦懐に見直す】 

 

「極悪人」

 マスコミからバッシングされている凶悪事件の容疑者に対して「極悪人!」「よくもあんな大嘘をしゃあしゃあと!」と憤慨したあげく、後で冤罪と分かって自分の間抜けな怒りに恥じ入る思いをしたのは私だけではないと思います。

 原発問題では多くの識者や組織が「極悪人」
(原子力ムラ・御用、左翼・扇動者etc)に仕立てられ、多くの人が自分にとっての「極悪人」の発言を無視しています。しかし、人間だれしも一方の情報を遮断していれば間違った判断を下してしまいます。そこで、我々が注意(確認)すべきことは下記となるでしょう。

【一時的に自分の敵愾心や先入観などを棄却した上で、「極悪人」からの情報をそのまま受け入れる】

 

 上記の二事例だけでなく大小様々な“主観的で個人的な思い”が正しい科学的判断を阻害し、それが“不毛な信念対立”を引き起こしています。特に、客観的事実をベースにした公益に関わる原発問題の議論では、このような“主観的で個人的な思い”は完全に断ち切られていることが必須です。学術論争を見本とする以前の話しです。

 そのため、上記の二つの確認は不可欠であってパスすることは決して許されないと思います。大勢の人々の生活と命がかかっているので「自分の論拠を理解できない」「恥じ入る思い」では済まされません。

 これに対して「自分には全く必要ない」と断定する人、「敵の話なんか聞けるか!」とうそぶくような人こそ確認が不可欠ですし、「目から鱗」を恐れて逃げ回る人にはますます不可欠となります。

 

DDT

 1960年代、レイチェル・カーソンは産業界からの激しいバッシングに耐えながらDDTなど合成化学物質の危険性を警告し、環境保護の流れを創るという偉業を成しました。しかしながら、DDTの使用禁止が主因となって途上国で根絶に向っていたマラリアが復活し、その後全世界で毎年100万人以上の死亡が続くことになってしまったのです。しかも、今ではDDTによる健康被害はほとんどないことが明らかとなり、WHOはDDTの使用を奨励しはじめました。
 このため、彼女は「真実ではない恐怖を煽ってDDTを禁止させ、大勢の子どもの命を奪った」とも批判されており、実際、危険性(体内蓄積と発がん性)の「定量評価」に甘さがあったのは確かです。
 単なる「あり/なし」ではなく、そのレベル・程度や量で評価する「定量評価」こそが、ここでのキーファクトのポイントだったのでした。


 内部被曝ではまさに体内蓄積と発がん性が問題となっていますし、外部被曝でも通じるものがあります。そこで、被爆被害の議論で我々が注意すべきことは下記となるでしょう。

【警告は単なる「危険性あり」ではなく、しっかりとした「定量評価」に基づいて行なう】
 (カーソンは危険性を訴えようと勇み足だった? 先駆者にありがちな失敗。「正義の悲劇」)

【警告に疑問を感じても、安易に「危険性なし」と全否定しない】
 (産業界は彼女を全否定しようとして、自分たちが全否定されてしまった。「全否定応酬の悲劇」)

【世論を煽る「大げさ」、押さえ込む「矮小化」はともに被害拡大の原因。絶対に手を染めない】
 (DDTだけでなくダイオキシン・環境ホルモンも「大げさ」、水俣病・エイズ・スモンは「矮小化」。
  対立のバランスを取ろうと「大げさ」で対抗するのも同罪。「世論誘導の悲劇」)

【被曝以外のリスクも含めた総合的な安全視点を堅持する】
 (両者が対立にかまけて、本当の脅威であるマラリア被害を許してしまった。「視野狭窄の悲劇」)

【「定量評価」などのキーファクトを確定・共有する努力を積み重ねる】
 (DDTでこれが出来ていれば犠牲者はかなり抑えられていたはず。「キーファクト軽視の悲劇」)

 この戦慄するしかない甚大な犠牲を少しでも無駄にしないため、我々は決して同じ失敗を繰り返してはならないと思います。


 最後にフィクションです。原爆の数年後、手塚治虫は被曝被害の悲惨さに大きな衝撃を受け、人気マンガで「ピカの毒はうつる」「今後100年は草木も生えない」「原爆症は遺伝する」と登場人物に言わせました。また、手塚自ら解説本を出し、広島・長崎の人たちに避難を、また被爆女性には堕胎・避妊を呼びかけました。世の人々は手塚の主張を受け入れて、・・・・・・。
 想像するだけでも恐ろしくなります。

 

 同じように影響力があり科学素養もある雁屋様の義憤に基づいた善意の行動が、意に反した恐ろしい事態を引き起こすことなど無きよう、くれぐれもお願いしたいと思います。                                                                                
                                                                                        
草々

 


西尾正道氏(危険寄り医師)への手紙   2015.5.18

   

西尾 正道 様

 前略

  塩川と申します。以前、ご講演のあと質問させていただいたことがあります。元エンジニアですが、世の“不毛な信念対立”を少しでも改善すべく細々とネット活動を行なっています。 

 西尾様の放射線被曝に関わる精力的なご活動には感服しておりますが、ここでは西尾様の近著「正直ながんのはなし」(2014年8月、旬報社)で感じたことを“正直”に書かせていただきました。


がん治療のご解説

ご著書の前半(第1〜5章)では、ご自分の豊富な経験と知識に基づいてがん治療の「標準治療」などについて解説されるとともに、近年“がんもどき”で注目を集めている近藤誠氏の主張を「無責任な極論」(P6)、「馬鹿げた選択」(P25)、「全体とすると誤った見解」(P54)と厳しく批判されています。

ただ、近藤氏の主張を全くのウソ扱いしているわけではありません。「一見がんもどきとして振舞うがんもある」(P40)、「患者さんがいだいているがん治療に対する不安や不信を代弁し、鋭く指摘する面もある」(P54)と一定の理解を示しながらも、「発見時点ではその後の進行具合が判断できない」(P22)、「“がんもどき”を期待して治療を放棄してしまうわけにはいかない」(P40)と、近藤氏の“バランスを欠いた判断”を丁寧に論証されています。

近藤氏の著書「医者に殺されない47の心得」には「医者はヤクザや強盗よりもタチが悪い」「検診・治療の真っ赤なウソ」と激しい言葉が使われていますが、西尾様はこのような雑言には取り合わずに、あくまで公正・是々非々の観点で客観的に論を進めておられます。


また、ご著書では、適時発見・適切治療のすすめとして、「五ミリの影が見つかったときにどうするか。実は医者も困る」(P42)、「影を早く発見することがよいことだとはかぎらない。『知らぬが仏』の世界があってもよい」(P44)、「早期治療だといって切る必要のないがんを切って機能を失うような治療をするのは間違い」(P44)としています。これは近藤氏の検診無用論・がん放置論を批判するとともに、その反対の過剰な検査・治療をも戒めており、あくまで「患者の最大幸福(その人の多様な幸福要素のトータルが最大となる状態)」をめざすお考えが示されています。


 がん治療のご説明では、このような「バランスのとれた判断」がとても印象的でした。

 

放射線被曝のご見解

しかしながら、放射線被曝に関する著者後半(第7章)では、これが一変しています。 (一瞬、近藤氏の言葉と勘違いしました)

ご著書には「御用学者たちが積極的に安心論を宣伝」(P128)、「ICRPは擬似科学による物語をつくって宣伝し、国民を催眠術にかけている」(P140)との激しい言葉が飛び出してきます。随所に「御用学者」「擬似科学」「デタラメ」「隠蔽」などの言葉が出ています。

しかしながら、最近発刊された「放射線被曝の理科・社会」の著者たち(一名は放射線防護学を専門とするベテラン研究者)は明確な反原発派でどうみても「御用学者」ではありませんが、放射線被曝に関しては「御用学者」と全く同じ見解を持っています。また「御用学者」の試金石になっている甲状腺がん多発に関しては西尾様も「御用学者」と同じ見解です。
 (これでは、西尾氏の言葉が近藤氏の雑言レベルになってしまうのでは?)


原発事故直後の鼻血多発を「厳然たる事実」(P165)と決め付けておられますが、その証拠は一養護教員の印象と(福島ではない)チェルノブイリの調査しかありません。事故直後のデータとして唯一信頼できる山田真医師のデータでは福島よりも福岡の方が8倍も鼻血が多いとの結果になっていますが、これは無視されています。

低線量被曝の危険性を示す文献がいくつか紹介されていますが、反対に危険性が示されなかった多数の文献は無視されています。内部被曝の危険性が強調されていますが、自然由来の放射性カリウム(セシウム類似)、ポロニウム ・ ラドン(α線)による被曝の説明はありません。
 (信頼できるデータは無視し、わざわざ特殊な例を持ち出して自説を証明しようとする近藤氏のやり方と同じ?)


ご著者後半には危険寄りの情報が溢れているので一読すると恐怖感に囚われてしまいますが、よく見ると特殊な例や根拠の薄い情報、あるいは単に危険性を否定できないだけのことのようです。
 (近藤氏によるがん手術・抗がん剤の危険性の訴え方と同じ?)


西尾様は、放射線被曝ではなぜ近藤流の“バランスを欠いた判断”になられてしまったのでしょうか? 「被災者の最大幸福」をめざす姿勢も見えてきません。とても不思議です。

 

甲状腺がんのご見解

甲状腺がんのご見解(P149〜155)も別の意味で不思議です。発症率は極めて低く予後も良好であるのに対して手術をすれば一生薬を飲み続けることになる甲状腺がんについて、適時発見・適切治療を提唱されている西尾様ならその一斉検査には間違いなく反対されるはずです。しかし、ご著書では検査の是非には触れずに甲状腺がん多発の可能性の説明に終始しています。

しかも、そのご説明は危険論と安全論を行ったり来たりしています。まず、「福島医大スタッフは自分たちだけ安定ヨウ素を服用した」(P149)、「責任者の山下医師は、自らの見解を翻して『笑っていれば放射線の障害は出ない』と笑って語った」(P150)として、被曝起因の甲状腺がんを否定する福島県健康管理センターの見解に対して疑問を投げかけています。(ここは安全論否定に誘導している、あるいは相手を貶めていると言うべきかもしれません)

しかし、つぎには、統計学的手法による甲状腺がん多発の主張を、「発症率と発見率の違いを考慮していないので、比較できるデータとは言えない」(P151)、「がん細胞の倍加時間から、一〜二年で一センチ以上のがんになることは考えにくい」(P152)ときっぱり否定されています。また、「わかめの味噌汁を飲んでいる日本人は、チェルノブイリの子どもたちの被曝よりは少ないのではないか、また発がんが生じるとしてもより長い期間を要するのではないかと考えられる」(P153)として、改めて多発主張を否定しています。

しかしながら、そのつぎには、「福島原発からの放出量はチェルノブイリよりも多いとの説があって、これが正しいとすれば、早期の発がんがあっても不思議ではない」(P154)、「大人の通常の甲状腺がんの経過とは異なり、子どもは別の経過をたどる可能性も否定できない」(P153)と多発主張の否定を後退させています。

そして、最後に「本当に我々はわかっていないことが多いのだと謙虚になるべきです」(P154)と締めくくられています。それはそうでしょうが、だからと言って「あれもこれ(危険論も安全論)もあります」との話しでは被災者は困ってしまいます。


    
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バランスのとれた判断 

今、福島で求められているのは、「被災者の最大幸福」を実現する「バランスのとれた判断」です。
 では「バランスのとれた判断」とは何か? それは、
【まずは、対立している見解のどちらかをそのまま取り込むのではなく、また逆に問答無用で切り捨てるのでもなく、その両者を公正・是々非々の観点で客観的に検討すること】 
  (上記の「近藤流の“バランスを欠いた判断”」の正反対) 

【さらに、分かっていることの一面的な見方だけを陳列するのではなく、多数の分かっていることの複雑な内容(スペクトル)それぞれを重層的に捉えた上で、それを慎重に総括した『標準見解』を確定し、これを基にして個々の状況に合わせて柔軟に判断していくこと】
  (上記の「あれもこれ(危険論も安全論)もあります」の正反対)

であると思います。

 

ここでの『標準見解』は、医療分野での「標準治療」と類似の概念になります。そこで、医療関係者に対しては、「バランスのとれた判断」とは

【「標準治療」に対応する『標準見解』を基にした柔軟な判断】

 とシンプル化できるでしょう。

 

がん治療での「バランスのとれた判断」は西尾様がすでに実践されてきたものです。それにもかかわらず、なぜか放射線被曝では“バランスを欠いた判断”になってしまっているのです。西尾様の他の著書やご講演においても同様となっています。

西尾様には、ぜひともこれを改善していただくようお願いいたします。同じく医師で概ね同様な主張をしておられる松井英介氏、松崎道幸氏、菅谷昭氏などにもお願いしなければなりません。

なお、ここで改善すべきは、判断にのぞむ態度、および判断をくだす論拠です。危険寄りの結論自体が問題というわけではありません。判断の態度・論拠がバランスを欠いているので、これを改善していただきたいのです。

もしこのまま改善がなされない場合には、下記のような不利益が発生する(している)と思います。


学説・政策に反映されない

第一に、西尾様の見解は放射線防護学や放射線影響学の専門家には無視され、それらの学説に反映されることになりません。
 真実はいつか必ず明らかとなるため専門家は自説の点検を怠るわけにいかず、論拠のしっかりした新説(特に自説への異論)を歓迎し注意深く検討します。しかし、“バランスを欠いた判断”は相手にされませんので、西尾様の主張はいつまでも素人相手に留まります。

 

第二に、健康調査や除染・帰還などの政策に西尾様の見解が反映されず、「被災者の最大幸福」を実現する政策にならない可能性があります。
 行政側学者や役人は被曝被害だけでなく他の疾患にも応える医療環境や生活環境まで視野を広げますが、西尾様の主張を信じている被災者や市民には放射線被曝の危険性(しかも過剰認識の危険性)しか見えないので両者の溝は決して埋まりません。この状況は、がん治療の標準治療を勧める西尾様はじめ一般的な医師 vs それを頑なに拒否する近藤氏信奉者の構図と同じです。【一般的な医師】⇒【行政側学者・役人】、および【近藤氏信奉者】⇒【西尾様信奉者】となります。

一般的な医師と近藤氏信奉者の話し合いは平行線となり、「患者の最大幸福」を実現する治療は打ち捨てられます。同様に、行政側学者・役人と西尾様信奉者の話し合いは平行線(あるいは実現せず)となり、「被災者の最大幸福」を実現する政策は打ち捨てられます。

さらには、“バランスを欠いた判断”が絶好のチャンスを逃している面もあります。実は【一般的な医師】と【行政側学者・役人】では「後々の責任追求」の点で大きく異なります。患者の症状・経過は千差万別なので前者にはその可能性は低いのですが、被曝被害はデータとして明確に出るので後者には当時の判断ミスによる被害拡大の責任が後々厳しく追及されます。【行政側学者・役人】はそれを極度に恐れるので、政策策定の際には(自説とは異なり)かなり危険寄りの判断になるはずですが、それでもなお、あまりにも“バランスを欠いた判断”は受け入れられないのです。

もし判断の態度・論拠さえバランスのとれたものであったなら、たとえ結論にそれほどの大差がなくても、西尾様の見解の一部は政策に反映されることになるはずです。

 

世論の無関心・危険論の衰退

 第三に、原発事故直後には世論にインパクトを与えた「もうすぐ人がバタバタと倒れる」は今では逆宣伝材料になっていますが、西尾様の主張もこれと同じになる可能性があります。
 公正・是々非々とはほど遠く、しかも印象に流れやすい世論は、主張の一部の間違いが明らかになっただけで本来正しい主張も一緒くたに全否定してしまいます。そして、“バランスを欠いた判断”にはそのような間違い候補は事欠きません。このようにして、世論は過度の危険論から過度の安全論に一足飛びして、結局は放射線被曝に対して無関心となります。

行政は世論の関心のないことに資源を投入しないので、長期的な健康監視体制はいい加減になり、実際に発症があっても発見されずに被曝被害はなかったことになってしまいます。

(検診でひっかかり、お節介な物知りからもうダメみたいなことをさんざん言われて恐怖におののきながら精密検査を受けたところシロとなり、「な〜んだ」と以後ずーと定期検診を忘れている人と同じ)

 

第四に、放射線被曝の危険論を衰退させる可能性があります。
 “バランスを欠いた判断”は一部の人々を先鋭化し、「福島で突然死が増えている」「将来何十万人も死ぬ」「首都圏も、いや日本中が危険」などと叫ばせています。2014年1月のご講演では甲状腺がんの多発を否定する際に、西尾様は聴衆からの反発を恐れて「勇気がいる」状況になっていました。
低線量被曝  「勇気がいる」 ) 

このように情報発信元である西尾様すらコントロールできない状況となり、そのうちに西尾様も「御用学者」に認定されてしまうでしょう。このようにして、危険論内部で対立が生じて互いに潰し合いながら衰退していくことになります。

 (かつて強い政治力を保持していた革新勢力は内部対立でしだいに衰退していきましたが、これは当時の指導者の責任です。放射線被曝では西尾様が危険勢力の指導者格ですので責任は重大です)

 

以上4点のように“バランスを欠いた判断”はせっかくの主張(知られざる被曝被害の警告)を社会に生かすのを阻害します。そして、(その主張が完全な間違いでない限り) これは被災者だけでなく国民にとって不利益となりますし、危険寄り識者・市民の努力も報われなくなります。得をするのは行政側学者・役人だけ・・・というわけではなく、彼らには「後々の責任追及」が待ち構えています。つまり、皆が不利益を被ります。

 さらには、被曝被害の深刻さを根拠にしている反原発運動を衰退させ、反原発を基本路線としている革新勢力の支持率低下を招くことにもなるでしょう。ますます皆が大きな不利益を被ります。


      
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“不毛な信念対立”

 “不毛な信念対立”とは、「非本質的な原因」によって建設的な議論とはほど遠い低レベルの非難・誹謗合戦に終始し、結果的に大半の関係者が不利益を被るような対立です。(関係者とは、実際に対立している両者だけでなく、なんらかの利害関係のあるすべての人々)

「非本質的な原因」は、本来は客観的であるはずの「不適切な判断」を中心として、それに主観的な敵愾心・自尊感情・情動などが活性剤として付随しています。「不適切な判断」は、客観的事実の誤認、論理性の欠如、“バランスを欠いた判断”の三つが代表的です。

客観的事実の誤認と論理性の欠如は、単なる知識や能力の問題(あるいは誤魔化し)なのでここを鋭く突けば簡単に論破できます。しかし、“バランスを欠いた判断”は、総体的な問題なので王手となる批判が困難でいわば神学論争となってしまうため、“不毛な信念対立”の主要な原因になりがちです。


この点から、放射線被曝の安全論 vs 危険論は“不毛な信念対立”の典型であり、西尾様らの“バランスを欠いた判断”はその主要な原因になります。そこで、上述の“バランスを欠いた判断”の問題は普遍的・本質的なものであり、さらにくわしく検討する価値があると言えます。

当然、西尾様だけでなく他の危険寄りあるいは安全寄りの識者も同じなのですが、その代表として西尾様の例で検討を続けさせていただきます。

以下に、まず“バランスを欠いた判断”になっている理由を検討し、つぎにその改善策について提案します。


“バランスを欠いた判断”の理由

西尾様が“バランスを欠いた判断”となっている理由は次のように考えられます。がん治療との比較で要点のみ示します。 
 (あくまで憶測に過ぎないのですが、他の識者の理由でもあることを想定していますのでご寛恕願います)

1) 信念 : がん治療での西尾様のご信念は「患者の最大幸福」とお見受けしますが、そのためのご努力が実を結んでいると思います。一方、別のご信念と思われる反原発にとっては放射線被曝は深刻な方が都合がよいので、放射線被曝の判断に反原発のバイアスが加わっているのではないでしょうか? 

2) カウンターバランス : がん治療では医者のリテラシーが高いので、たとえ主流学説への異論であっても誇張などは不要です。一方、放射線被曝では世論のリテラシーが充分ではないので、主流の安全寄り見解のカウンターバランスとして本当のお考え以上に危険寄りにしたセンセーショナルな主張になっているのではないでしょうか?

3) 正義感 : 西尾様にとってがん治療での敵はがんそのものですが、放射線被曝での敵は政府や「御用学者」になっています。正義感が強ければ強いほど、客観的であるべき判断が政府・「御用学者」打倒の役割を帯びてしまい、その信頼性はどうしても低いものになります。

4) 反体制 : 旧国立病院の責任者だった西尾様はがん治療では体制側ですが、放射線防護・影響学では反体制側になります。責任の伴わない反体制側の判断はどうしても攻撃的で重箱の隅をつつくようなものになります。

5) 専門 : がん治療は西尾様のご専門であり、当該専門家同志での情報交換も常になされています。一方、放射線防護・影響学はご専門外であり、当該専門家との情報交換はあまりなされていないと思います。非専門家ひとりの判断はどうしても偏ったものになってしまいます。 

なお、1)、2)は意図的な場合と無意識の場合の両方があり得るでしょう。3)、4)は無意識であり、5)は個人の意識とは無関係です。

 

改善策

 “バランスを欠いた判断”を改善するための方策を提案させていただきます。

 第一に、自分の意識変革。
 まずは、“バランスを欠いた判断”は深刻な問題との認識とそれを改善しようとする意欲が必要です。
 つぎに、安易な極論に流れやすい自分を律する高い倫理観と広い視野が必要です。
(特に上記理由の1)、2)は一時的にはそれなりの効果が出るので、大変抗し難い面があります) 
 さらに、自分を客体化して冷静・謙虚に検討する態度が必要です。
(特に3)、4)には必須)  
 最後に、自説を変える勇気が必要です。広報活動でも「勇気がいる」ことになります。


 第二に、「バランスのとれた判断」についての深い理解。
 上述内容が参考になるはずですが、ここでのポイントはがん治療など他の案件との比較です。本案件だけをいくら考えても、その枠内の従来思考から逃れることは困難です。 


 第三に、真摯な議論。
 議論を進めていく過程で、自説の問題点や相手の異論の優れた点に気づくことが出来ます。気づきのために合意は不要ですが、上記の意識変革と理解、そして真摯さが不可欠です。

また、やみくもに議論するのではなく、相手を選んでステップを踏むことが重要です。基本的には相手は「仲間」→「親しい」→「疎遠・初対面」とし、さらに相手の見解あるいは知識・考え方は「同じ」→「部分的に異なる」→「全く異なる」とするのが理想でしょう。

西尾様の場合、最終ステップの相手は「御用学者」となりますが、その前に「放射線被曝の理科・社会」の著者との議論がとても有意義になると思います。彼らは同じ信念(反原発派)を持ち、学術レベルはほぼ同じ(放射線防護学では相手が一段上、医学では西尾様が一段上)でありながら、まったく異なる見解を持っています。これで彼らと議論しない手はないでしょう。 (がん治療の学会で似たような研究者がいれば、無理をしてでも議論に押しかけるはずです)


ここまでで「バランスのとれた判断」にかなり近づくはずですが、さらに先に進んでいただきたいと思います。


学会活動

「バランスのとれた判断」すなわち【「標準治療」に対応する『標準見解』を基にした柔軟な判断】に近づいたとしても、その『標準見解』はまだ個人的なものに過ぎません。そこで、西尾様にはこれを基にして、「標準治療」と同じように公けに認められる『標準見解』を確立していただきたいのです。

これを実現するには、今度はしっかりとした合意をめざして、「御用学者」も含めた専門家との「真摯な議論」を徹底的に行なわなければなりません。そして、早い話、これは放射線防護・影響学の学会に参加して学会活動を行なうことに他なりません。

 

「近藤医師はこの二十年近くも医師が集まる学会や研究会で研究発表しないようになりましたし、顔を出さなくなっており、議論もできないのです。同業者には誤魔化しが効きませんので、同業者間の議論を回避し、素人相手に誤魔化すことにより近藤教祖になって悦にいっているのは悲しいかぎりです」(P39)と書かれてます。

西尾様には、決して同じ穴のムジナとならないようご注意いただき、持ち前の行動力で学会の風雲児となって放射線被曝の『標準見解』の確立に向けてご活躍されるよう、ぜひともお願い申し上げます。

                                                                  草々


 追伸  松井英介様、松崎道幸様、菅谷昭様にもご参考にしていただきたく、本手紙の内容をお送りしました。


 



影浦氏への手紙   2016.9.23

影浦 様 

 

前略

 

はじめまして、塩川と申します。私はメーカの元エンジニアですが、世にあふれる“不毛な信念対立”に関心をもっており、その一端として福島原発事故後に増加している文系識者による『専門家』(医師・科学者・技術者)への批判に注目しています。なかでも影浦様は「『専門家』は必然的に誤る」と言い切り、これを前提として「『専門家』は、なぜ、どのようにして誤るのか?」を詳しく検討することによって、その奥に潜んでいる『専門家』が抱える本質的な問題を明らかにしようとなされています。

『専門家』の端くれであろう私は、影浦様のユニークな着眼や鮮やかで精緻な論理展開には舌を巻き、いくつかの指摘にハッとして考え込むこともありましたが、なぜか論旨全体には大きな違和感を覚えてしまいました。科学技術の現場とは無縁な別世界のお話しに感じられるのです。本物の『専門家』からもなんの反応もないようです。

 

 科学技術がきわめて高度となり社会への影響も大きくなっている現在、文系識者による『専門家』批判、あるいは科学技術に関わる様々な批判は本来的には大変有意義なはずなのですが、実際にはそれらの多くは影浦様の場合と同じように意味ある成果を生み出せていないようです。私はこれらを丁寧に観察していくうちに、その原因は彼らの「事実認識」と“問題意識”にあることが分かってきました。

(科学技術以外の様々な分野での批判にも、それほど顕著ではないものの同じ問題が潜んでいることも気づきました)

 そこで本書簡では、「影浦様は、なぜ、どのようにして「『専門家』は必然的に誤る」と(誤)判断したのか?」を検討させていただき、その奥に潜んでいる文系識者が抱える本質的な問題を明らかにしたいと思います。検討資料は、反原発・脱被曝陣営でよく読まれている影浦様の「信頼の条件」-原発事故をめぐることば-(岩波科学ライブラリー 207 2013年4月)と最近の「現代思想」2016年3月号の論文「あれから五年、リスクコミュニケーションが私たちから奪うもの」を主としました。

      



1. 「事実認識」

 「事実」はすべての基本であり、原理的にすべての人々と共通了解し得るものなので「事実認識」が重要であることは論を俟ちません。特に、科学技術に関するものでは最重要となるのは当然です。

1-1 譬え 

影浦様は、現状の福島は「通学路に交通量の多い道路ができて、しかも制限速度を越える車が多いときに、保護者が通学する児童の安全を不安に思っている状況」としておられます。(「信頼の条件」 p61) しかしながら、「通学路に遊歩道ができて、車といえばたまに幼児の三輪車が通る程度なのに、一部の保護者が不安に思っている状況」の方がふさわしいかも知れません。どちらの譬えを採用するかでイメージは一変しますが、両者はリスク評価という「事実認識」が違っているだけです。

 

1-2 「事実認識」の適切/不適切

「事実認識」には単なる正/誤だけではなく適切/不適切があります。間違っていなければよいかと言えば決してそうではなく、適切な「事実認識」こそ必須となります。

どんなことでも個別の事実はきわめて雑多であり、その事実群のどれに注目するかで「事実認識」は変わってしまいます。しかし、人は往々にして自分が関心を持つ個別事実のみに注目して、チェリーピッキング(都合のよいものだけを選択)による不適切な「事実認識」になってしまいます。これに対して、適切な「事実認識」とは、チェリーピッキングと真逆の「バランス」はもちろん、しっかりした根拠による「客観」、量的な評価となっている「定量」などを満足しているものとなります。

 

1-3 影浦様の場合

下記4点は影浦様がよく用いられる批判ですが、いずれも根拠となる「事実認識」が不適切と思われます。

@「魚を食べても問題ない」
 影浦様は、『専門家』による「基本的には、海の魚を食べても問題ない」との発言に対して、出荷制限中のコウナゴが規制値を超えた一例をもって「事実に照らして誤っていたのです」としておられます。(「信頼の条件」p3 、「現代思想」 p172) 
 しかし、チェルノブイリや水俣のように、長期間にわたって『専門家』が危険性を警告しなかったために被害が拡大した場合を「誤っていた」と言うべきです。被曝量が低く流通制限もしっかりと行われた福島で「問題ない」との判断が正しいのは、当時ですら明らかでした。もともと被曝リスクは化学物質リスクと比較にならないほど解明されており、測定も容易なので確かな予測・対策が可能です。影浦様の「事実認識」は「バランス」を欠いておられます。

A「ニコニコ笑っている人には」 
 影浦様は、『専門家』の「放射線の影響は、実は、ニコニコ笑っている人には来ません。クヨクヨしている人に来ます。これは明確な動物実験でわかっています」との発言を取り上げ、「あからさまに非科学的だったもの」の代表としておられます。(「科学」岩波書店 2013年11月号 p1261)
 しかし、これは多少でも体に興味にある人なら誰でも「ストレスによる免疫力低下」として納得するでしょう。「3・11甲状腺がん家族の会」世話人の牛山元美医師も「自己肯定感が免疫力を高める…。免疫力が正しく働いていると、がん細胞をやっつけることもできる」と説いています。(「ママレボ」10号 2015年11月) 「ニコニコ」発言がリスクコミュニケーションとして適切であったか否かの議論はあってもよい(牛山医師もこの点は批判的)でしょうが、この発言を非科学的と決めつけるのは「客観」を欠いておられます。

B「チェルノブイリと同じではない」
 影浦様は、『専門家』の「チェルノブイリと福島は同じでない」との発言を「国際原子力事象評価尺度でのレベル7と、チェルノブイリと同じ深刻な事故だったわけです」として否定しておられます。(「信頼の条件」p7 )
 しかし、チェルノブイリと福島では、前者の炉心爆発に対して後者は建屋の爆発ですし、放射線核種の放出量は前者がヨウ素131・セシウム137で後者より1桁、ストロンチウムで2桁、プルトニウムで4桁も多く、科学的にはこれを同じとは言いません。「定量」を欠いておられます。

C「メルトダウンじゃない」 
 影浦様は、事故直後の物理学者による「メルトダウンじゃないだす」とのTwitter、および原発『専門家』による水素爆発以外の可能性指摘、東大による柏キャンパスの高線量に関する誤った説明などを「『専門家』は必然的に誤る」の典型例として挙げておられます。(「現代思想」p171-172)
 しかし、これらは情報が極度に不十分な状況でのささいな誤りをあげつらったものでしかありません。もし「必然的に誤る」のであれば、その後には決定的な例が次から次に出てくるはずなのですが、5年も経った論文でもこのような例しか示すことが出来ておられません。

 

2. “問題意識” 

客観的な「事実認識」だけでなく主観的な“問題意識”、つまり、何かを「問題である(あるべき姿ではない)」とする意識も間接的ながらとても重大となっています。

2-1 譬え 
 影浦様は、『専門家』は「水の専門家が、道路脇のビルの窓から『撒かれた水』で濡れて怒っている通行人に『水そのものに、窓からの放水由来の水か天然由来の雨による水かの差異はありません』と言うことが有効だと考えている」としておられます。(「現代思想」p173) つまり、不届き者が撒いた水に濡れて、得体の知れない水をかけられたとカンカンに怒っている通行人に対して、その怒りも理解せずに水の素性を解説するバカな『専門家』との図式にしています。

しかしながら、「通行人がビルから降ってきた水を避けようと車道に飛び出して大事故が発生。上ばかり気にして障害物にぶつかったり足を滑らしたりする事故も続出。現場を調査した専門家が『樋から漏れた雨水で、量も今降っている雨の数分の一。今日はどこも滑りやすくなっているので、こちらの方が要注意』と説明したので多くの通行人から感謝された」の方がふさわしいかも知れません。つまり、無知から新たな事故を起こしそうになった通行人に対して適切なアドバイスを与え、様々な事故被害を防いだ賢明な『専門家』との図式になります。

どちらの譬えを採用するかでイメージは一変しますが、両者の「事実認識」に差はほとんどありません。“問題意識”が「事故責任」vs「事故被害」と大きく違っているだけです。

 

2-2  “問題意識”の適切/不適切

“問題意識” はその人の経験・知恵・価値観・思考に基づいているので、人それぞれであって正/誤はありませんし、どんな“問題意識”も尊重されるべきです。しかしながら、適切/不適切が厳然と存在する場合もあり、特に下記3点で顕著となっています。

1)公的案件での独善

当然ながら他人の“問題意識”も尊重すべきなので、多くの人々が関わる公的な案件に関しては、自分の“問題意識”とは異なるとして他人の“問題意識”をむやみに無視してしまうのは独善であり、不適切です。

2)不適切な「事実認識」
 具体的な“問題意識”は経験・知恵・価値観・思考だけでなく具体的な「事実認識」にも基づいているので、その「事実認識」が不適切であれば“問題意識”も不適切となります。分かりやすい例では、近世ヨーロッパを席巻した「魔女を生かしておいてはならない」との“問題意識”は、悪魔と契約した魔女が存在しているとの不適切な「事実認識」に基づいているため、倫理・人権などを持ち出すまでもなく不適切です。

3)「事実認識」への影響  (認知バイアス)

“問題意識”は「事実認識」を不適切なものにすることがあります。つまり、自分の“問題意識”による認知バイアスが働いて「事実認識」を歪ませてしまうことにもなり、例えばチェリーピッキングをより促進し、自分の“問題意識”に沿わない事実(「不都合な真実」)を無視することになります。特に下記で深刻になります。

@アイデンティティ
 “問題意識”に「アイデンティティ」が絡んでいると認知バイアスは顕著になります。アイデンティティは本質的に激しさと頑迷さを備えているからです。自分の“問題意識”に沿わない事実は根拠もなく否定し、自分の「事実認識」への批判はがんとして認めません。「不都合な真実」が目前に聳えていても全く見えません。

A共依存
 “問題意識”が「事実認識」に基づき、一方「事実認識」が“問題意識”による認知バイアスで変わるのなら、両者はいわば「共依存」の関係になります。例えば、「〇〇を信用してはいけない」との“問題意識”と「〇〇のやることはデタラメ」との「事実認識」は、互いに相手が自分の存在理由になっています。これはとても座りがよいこともあって、いたる所ではびこっています。

B増幅作用
 共依存がある場合には、「事実認識」がある方向に少し偏っていれば“問題意識”も少し偏り、その“問題意識”が「事実認識」をさらにその方向に偏ったものにします。このサイクルが繰り返すことになれば「事実認識」はその方向にひどく偏ったものになってしまいます。いわば「増幅作用」です。

以上のようにして形成された「事実認識」は“問題意識”を反映したものでしかなく、これが適切であるはずはありませんし、このような働きをしてしまう“問題意識”も適切であるはずがありません。

 

 例えば、極端な文明否定論者は、平均寿命が縄文時代20歳以下、江戸時代40歳以下との悲惨な状況は無視して現代文明のささいな罪科を糾弾しています。(「バランス」欠如) 創造論者は、進化論の圧倒的な証拠は無視してささいな未解明点を追及しています。(「客観」欠如) ワクチン反対者は、ワクチンの感染症へのきわめて高い有効性は無視してわずかな副反応ばかりをあげつらっています。(「定量」欠如) いずれの「事実認識」も、“問題意識”からの強い影響による如何ともしがたい“ずれ”を呈しています。

 

 “問題意識”と「事実認識」のイメージを図1に示します。

 



2-3 影浦様の場合

影浦様の“問題意識”は下記3点で不適切となっているように思えます。

1)公的案件での独善
 世で最も一般的な“問題意識”は「自分の健康障害」に疑いはないでしょう。福島の被災者であっても「自分の健康障害」の要因としては持病や生活習慣病などが大きく、事故起因であっても直接的な被曝よりも避難ストレスなどの精神面の方が厳しくなっています。ただし、要因のごく一部とはいえ被曝は新規であるが故にその内容・程度はぜひとも知りたいものであり、それに応えているのが医師や放射線影響・防護学の『専門家』となっています。

しかしながら、影浦様は、『専門家』が「『まさにその(原発)事故』として問題にする」ことが出来ていない、「事故そのもの」として捉えていないと厳しく批判しておられます。(「現代思想」p172-173) これは、ご自分の「事故責任」の“問題意識”を絶対的な基準にして、より一般的な“問題意識”を無視していることになります。これは影浦様が批判している「自分の考えを共有しない人を問題化する」(「現代思想」p175)そのものでもあります。独善的と言われても仕方がないと思います。

2)不適切な「事実認識」

「事故責任」の“問題意識”は、天災(不可抗力)と人災の要素、人災の重責者(原発関係者、識者、政治家、メディア)、責任の内容(無能、過失、未必、無作為)などに関する「事実認識」に基づくはずです。影浦様の場合、これらの「事実認識」が上記1-3と同じように不適切であれば「事故責任」の“問題意識”も不適切なものになっています。

3)「事実認識」への影響  (認知バイアス)
 影浦様の「事実認識」は不適切なものが多いのですが、事実に対するご関心が薄いわけではなく、むしろ逆のようです。例えば、著作や論文の註には事実の根拠が大変詳しく説明されています。「ニコニコ」の場合には動物実験に関する海外の学術論文まで調査されており、「動物に関してニコニコしている状態とクヨクヨしている状態をどのように定義し判別して実験が行なわれたのか、不明」「ツバメや蝶がニコニコしたり人間とおなじようなストレスを感じたりするとは考えにくい」などと嫌疑を呈しておられます。(「科学」p1267)

しかしながら、まさにこの嫌疑に象徴されるのですが、影浦様の「事実認識」にも如何ともしがたい“ずれ”を感じざるを得ません。発言趣旨である「ストレスによる免疫力低下」は無視してしまい、たまたま出てきた動物実験に偏執して重箱の隅をつついておられる姿は文明否定論者・創造論者・ワクチン反対者と同型にしか見えません。

 

一方、もし仮に影浦様が「人類にとって大変な脅威となる地球温暖化を防ぐには原発推進しかない」(温暖化研究の世界的権威の持論)との“問題意識”を持っておられたとすると、同じ事実群に接しても現状のような「事実認識」には決してならなかったと思います。(反原発識者を鋭く批判しておられたかも知れません)

“問題意識”による認知バイアスが強く出てしまっていると思います。

 

3.  影浦様の批判

ご自身の不適切な「事実認識」と“問題意識”により、影浦様の批判は妥当性を欠いていると思います。下記は各構成要素での一例です。

@ 前提
 批判の前提となっている「『専門家』は必然的に誤る」が崩れています。

A 着眼
 例えば、影浦様は『専門家』が「既往の一般化された『科学的』知識をアプリオリな正解として持ち出し、それに従えば事故は『このようにあるべき』であるというかたちで状況を解釈する」としておられます。(「現代思想」p172) 事故直後の原発『専門家』に対するこの着眼には唸らせるものがあります。ただ、これはデータもほとんどない想定外の事態、しかも極端に不十分な情報で判断しなければならない状況下での話しです。
 これに対して、事故後しばらくしてからの医師や放射線影響・防護学の『専門家』は、膨大なデータの蓄積・解析でほぼ解明されている定説に基づいて説明しているだけです。状況は全く異なりますし、「このようにあるべき」もありません。しかしながら、影浦様は両者を同列に、しかも後者にも原発事故の責任があるかのような姿勢で批判しておられます。これではユニークというより的外れな着眼になっています。 

B 論理
 例えば、影浦様は「健康への影響に閾値はなく線量に比例」(a) ⇒「100ミリシーベルト以下では影響がないかのような(『専門家』の発言)」(b) ⇒「リスクは可能な範囲で最小限に抑える(のが当然)」(c) ⇒「不当に強いられた被曝も受け入れるべきだとする(『専門家』の発言)」(d) と批判しておられます。(「現代思想」p174) 
 (a) (c) は適切ですが、(b) (d)では「自分の健康障害」の観点から行われた説明を、あたかも閾値無し直線仮説を否定し追加被曝を強制するかのように決めつけるきわめて不適切な「事実認識」となっています。適切な「事実認識」に基づかない論理はいかに鮮やかで精緻であっても、無意味なうわすべりの論理、精緻な論理遊びにしかなりません。

C レトリック (印象操作)
 例えば、影浦様は、上記1-3 Bで「『爆破弁』という存在しないものを『専門家』が誤って持ち出すことは考えにくにせよ」との文言を添えておられます。これは意味がとりにくいものの、とにかく『専門家』がとんでもなくデタラメ発言をしている印象を十分に与えます。爆発にショックを受けてとっさの思いつきで「爆破弁」と言い繕ったと憶測しておられるのかもしれませんが、実際には「爆破弁」は存在します。これはレトリックと言うよりも、あいまいな事実を使った印象操作と言うべきでしょう。

また、「『専門家』でもまれに誤るが、その誤りには必然性がある(ケアレスミスでも偶然でもなく、ちゃんとしたわけがある)」は世にあるひとつの考え方ですが、もし影浦様がこのように考えておられながら「『専門家』は必然的に誤る」と表現されたのであれば、それは「『専門家』は必ず誤る」と思わせる印象操作になります。

 

 

以上、影浦様による『専門家』批判について詳しく検討してきましたが、科学技術に関わる様々な批判を行っている文系識者の中にも同様な問題を抱えている人々が少なくありません。そこで、ここからはそのような人々(以後、「文系識者」)を対象として、さらに検討を進めます。

 

4. 社会への悪影響

「文系識者」の批判が引き起こす社会への悪影響について検討しました。

4-1 不信・迎合・敵対
 第一に、『専門家』批判の場合です。
 まず、「文系識者」の批判は肝心の『専門家』に対してはなんの影響も与えないでしょう。当の『専門家』は自分がなにを批判されているかもよく理解できていません。「文系識者」の「事実認識」と“問題意識”が自分のものとあまりにもかけ離れているからです。ただ、『専門家』と「文系識者」の間での「不信」は進むことになるでしょう。

つぎに、一般市民に対しては比較的大きな影響を与えるでしょう。一定数の市民は『専門家』への信頼を失い、以前より『専門家』に不信感を抱いている人々や反体制・反権威・反科学の考えを持っている人々は『専門家』への敵愾心をより強くするでしょう。このようにして『専門家』への「不信」は激しくなり、いたずらに『専門家』に反発するようになります。

このような市民に対して『専門家』は次のような態度をとるでしょう。
    へりくだって保身的な態度をとる。(反発を恐れて)
    従来以上に強硬な押し付けとなる。(相手にしても意味がないので)

原発の例が分かりやすくなっています。事故以前には「安心情報のみを開示し、およそ自分でも考えていない『絶対安全』を強調する」状態でしたが、これが逆になって、
    危険情報だけを開示し、およそ自分でも考えていない「可能性を否定できないリスク」を強調する。
あるいは、無理やり抑え込むしかないとして、
    従来にも増して、安心情報のみの開示と「絶対安全」の強調を行う。
となるはずです。

 Aは「迎合」、は「敵対」であり、上記「不信」も含めこれらは誰にとってもマイナスにしかなりません。

 

4-2 不毛な信念対立
 第二に、科学技術に関わる批判の場合です。例えば、(一般的な)原発問題・被曝問題、あるいはワクチン政策やエネルギー政策・地球温暖化対策などは事実解明の困難さだけでなく、個人の価値観が強く関与する超難問です。そのため、様々な立場からの真摯でぎりぎりの議論が行われるべきなのですが、実際には自分の信念に固執した低レベルの批判(非難・中傷)応酬の「不毛な信念対立」となっています。これは国民・人類レベルでの深刻なマイナスとなります。

ここで看過できないこととして、「不毛」となってしまう原因はメインの主張やその根拠の違いそのものではなく、@諸々の甘い「事実認識」、A独善的な“問題意識”、B感情的な「不信」「敵対」、C個人的な『思い』などにあって、これらはまさに「文系識者」が気づかずに推し進め、市民に広めてきたことなのです。

(なお、これらの問題は科学技術分野での文系識者で目立ちますが、実際には科学技術以外の様々な分野にも、また文系識者以外にも当てはまることが多くなっています)

 

5. 遠因

問題の直接的な原因は不適切な「事実認識」や“問題意識”ですが、「文系識者」が自らの不適切さを理解できない、あるいは不適切さを許してしまう背景、つまり問題の遠因について検討しました。遠因としては、科学技術の基礎知識が乏しい、科学リテラシーが弱い、実務経験がない等もあるでしょうが、最も重要なのは下記3点だと思われます。分かりやすいように『専門家』との比較で説明します。

@「事実」の厳しさ・恐ろしさ
 『専門家』は「事実認識」での「バランス」「客観」「定量」の確保、およびチェリーピッキングや認知バイアスの回避をしっかりと訓練されており、本人はそれらを怠って不適切な「事実認識」を示してしまえば自身の将来にマイナスとなること、社会に迷惑をかけてしまうことを肝に銘じています。
 対して「文系識者」はこれらの点がほとんど抜け落ちています。「事実」を論考のイントロ程度にしか考えていないふしすら見えます。「事実」の厳しさ・恐ろしさを知らないようです。

A正義・道徳に対する『思い』
 『専門家』は事実の追及と正義・道徳の実現はまったく別のもの、無関係のものであることをしっかり理解しています。
 対して「文系識者」、特に意識の高い人は不正義・不道徳に対する憤りとこれを打破せねばとの強い『思い』があるようで、それが正義・道徳を体現している(と思い込んでいる)自説を強引に推し進めてしまうことになります。そこでは自分の「事実認識」や“問題意識”の吟味・点検は忘れられ、事実追及と正義・道徳実現がごっちゃになっています。正義・道徳に対する『思い』が熱すぎるようです。

B自分の論考への『思い』
 『専門家』の場合、論考にいくらインパクトがあっても事実として間違っていれば無に帰します。つまり「事実認識」の正/誤のみで評価が決まります。
 対して「文系識者」の場合、ほとんどが論考そのもので評価されるため「なんとかインパクトのある秀逸な論考にしたい」との強い『思い』があるようで、それが論考での華となる着眼や論理展開を偏重させてしまうことになります。そこでは「事実認識」の点検どころか、論考に都合の良いように「事実認識」がチューニングされがちです。自分の論考への『思い』に毒されているようです。

 

おわりに

『専門家』に問題が大ありなのは影浦様のご心配どおりで、これらには外部からの批判が必須ですし、科学技術の案件でも外部からの議論参加と批判が不可欠です。これに応えるべく「文系識者」が努力されているのは確かなのですが、結果的にはむしろ別の問題を発生させてしまっています。実際、「文系識者」の批判は貴重な示唆を感じさせるものの、彼らの不適切な「事実認識」と“問題意識”のためにそれをぶち壊してしまっています。実にもったいないことです。

 

しかしながら、果たして、その「事実認識」と“問題意識”でなければ「文系識者」の批判は成立し得ないのでしょうか? 秀逸な論考にはなり得ないのでしょうか? せっかく高級食材を使っても腐っていればどんなに優秀なコックでも食中毒を発生させるだけですが、高級ではなくても新鮮な食材を使えば皆に喜ばれる料理が出来るはずです。適切な「事実認識」と“問題意識”を使えば多少インパクトに欠けたとしても皆の役に立つ論考が出来るはずです。

ただ、腐っているか否かを判断する目が衰えている状況(遠因)もあるので、問題がとても根深いのも確かです。問題の改善は容易ではありませんが、以前アップした 「論考 専門家の発言」 が参考になると思います。

 

                                                              草々