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雑感 一般 F-100
「お誕生日」 2012.1.1
本日は2012年元日、本サイトの公開日です。いわばお誕生日。
会社を退職したのが一昨年の10月末。それから1年余の妊娠(準備)期間中では、各種栄養の吸収(不毛な信念対立の事例研究と関連研究の勉強)と胎児の大きく変化しながらの体づくり(原因/メカニズムと構造についての紆余曲折的な思索)を続けてきました。
そして、まだまだ未熟ながらも嬰児としてそろそろ世にも出てきて、保護されつつも社会に揉まれながら成長した方が良いだろうとのことで、本日めでたく誕生。
これからの皆様のご支援をどうかよろしくお願いいたします。
非本質的としか言いようのないもの 2012.1.3
私は小・中学生の頃、世の中にはいろいろと違った意見(今で言えば「信念」)があって、それらが喧嘩まがいで対立していること(今で言えば“不毛な信念対立”)をとても不思議に思っていました。
「真実はひとつのはずなのに・・・???」 「話し合いで分かり合えるはずなのに・・・???」
高校・大学生になると、情報や考えのすれ違い、相手への嫌悪や偏見、あるいは自説への思い入れなどが対立を混乱させ、対立を煽っていることに気づきました。しかし、こんな非本質的としか言いようのないものは取るに足りないと考え、あまり関心を持ちませんでした。
社会人となると、この「非本質的としか言いようのないもの」によって辛く痛い思いを何度も経験させられ、改めてその目で見ると世の中の多くの信念対立にとってはこれこそが本質的だと考えるようになりました。
この1年余いろいろと考えを整理してみると、これ(「非本質的としか・・」)をいかにコントロールするかが“不毛な信念対立”から“健全な信念対立”への変換のポイントであること、この変換こそが小・中学時代の疑念(けっこう難問)を乗り越えて多様性・価値多元性の社会を生かすためのポイントであるとの考えに至りました。
人類にとっての重要課題 2012.1.6
しかし、これらの改善から取り残されてしまって合意への障害となっているのが肝心の人間。多くの人々が、原始社会の暴力なみの不条理な要因により“不毛な信念対立”を引き起こしています。
これら各個人・組織による“不毛な信念対立”の損失も最終的には社会に戻ってきますので、社会(人類)としての損失総額は莫大であり、今後さらに拡大するでしょう。
勝算 2012.1.16
「『人類にとっての重要課題』はいいとしても、その解決に“勝算”はあるのかい?」と聞かれそうです。それには、つぎのようにお答えしたいと思います。
「暴力」が「話し合いによる合意」に進化したのと同じように、いずれは“不毛な信念対立”は「健全な信念対立」に進化すると思います。時間は相当かかりそうですが、このような形での勝算はあります。
詳しくご説明いたします。
原始的な社会では「暴力」はものごと(案件)を決める手段として一般的でしたが、現代社会では「暴力」はきわめて稀であり、しかも強く非難されるべきものになっています。そして、「話し合い」による合意をめざすことが道徳とされ(法律にまでなり)、実際にごく一般的となっています。
「暴力」から「話し合い」へ進化したのは、「暴力」は不条理で許されないもので、しかも結局は双方に不利益を招くだけのものとの理解が周知したためでしょう。
この「話し合い」のなかでたびたび発生する“不毛な信念対立” は、相手への『嫌悪』『情動』、自分の『利害』『ひいき』など不条理で望ましくない要因を持ち、結局は双方の不利益になることが多くなっています。つまり、レベルは異なるものの「暴力」とよく似ています。
そこで、基本的には賢明と言える人類は、「暴力」の場合と同じように、いずれは不条理・不利益である“不毛な信念対立”を退化させて「健全な信念対立」に進化させるでしょう。
つまり、将来いつの日か、“不毛な信念対立”は稀で非難されるべきものになり、「健全な信念対立」が道徳とされ一般的になると思います。
ただし、このような状況がローカルに出現するのは比較的早いとしても、これが社会全体にしっかりと定着して『人類にとっての重要課題』が解決するまでにはとても長い年数がかかるでしょう。 「暴力」から「話し合い」への進化は少なくとも100年単位となっているので、情報化社会で変化の激しい現代であっても10年単位であることは間違いないでしょう。
これでは、今年還暦の私はもちろんのことですが、このサイトを見ておられる多くの方も、この世では『人類にとっての重要課題』の解決を実感することは出来ないかと思います。 しかし、私たちの努力によっては、この期間を何分の一かには短縮することが出来るかも知れません。もし成功すれば、これは私たちの子孫に対する大きなプレゼントになるのではないでしょうか?
“不毛な信念対立”は不道徳 2012.1.16
「“不毛な信念対立”は不道徳」と言ってもよいと思います。道徳とは「社会生活の秩序を成り立たせるために、個人が守るべき規範」ですが、“不毛な信念対立”は以下に示すような形で対立場面(信念対立での社会生活)の秩序を乱しています。
@ 一方的な自説主張(聞く耳もたず)、相手主張の曲解(時に捏造に拡大)、相手人格の非難(時に誹謗・中傷に拡大)などの「不毛行為」
A 不毛行為による「健全な信念対立の駆逐」
B 健全な信念対立なら起こりにくい「より正しい結論の取り逃し」
福島での被曝の避難基準は学者によって年間0.1、1、20、1200ミリシーベルトと実に4桁の差があります。このどれを採用するかによって対策と費用は大幅に変わり、結果的にどれが正しかったかによって最終的な被害は劇的な差となります。
もし判断を誤って避難基準が甘すぎれば被曝による健康被害が発生しますし、厳しすぎれば不要だった避難による精神面を含む健康被害、転校・家庭分断・失業などによる諸マイナス、国家予算の莫大な浪費が発生します。
地球温暖化では、その原因を人間活動とする人為説が主流ですが、これを否定して自然変動を原因とする懐疑説もあります。日本政府は人為説を採用して年間1〜2兆円の予算をつぎ込んでいますが、もし人為説が誤りであったらこれは全くの無駄使いとなり、他予算圧迫による諸マイナスは人災と言われるでしょう。
逆に、もし人為説が正しいのに懐疑説を採用して対策を行わなかったとすると、将来温暖化は深刻となって世界では億単位の犠牲者が出るとも予測されています。
もちろん、当事者のほとんどは善意を原点とし、真剣に検討を重ねた結果を自分の信念として主張しています。そして、事の重大さ故に反対意見とは激しく対立しているのでしょう。
残念ながら、少なからずの人が悪魔の奸計(→不毛化エンジン)に陥って、意に反して社会的な不道徳への道に迷い込んでしまっているようなのです。
自分へのレッテル貼り 2012.1.23
一応のレベルに達しているしっかりした信念があって、人がそれに向かい合う機会があれば、それに少なからず感化されるのはごく自然なことでしょう。(『偏見』などの阻害要因がないとして)
一方、このような信念は世の中に数え切れないほど存在し、しかもいくつかは対立し合っています。私たちは日々これらに出くわしていますので、もしこれらすべてと真摯に向かい合っていけば大変な労力と時間が費やされる上、それぞれの信念に感化されて大きな混乱に陥るでしょう。
これを避ける有効な手段が「自分へのレッテル貼り(類型化)」です。すなわち、世の中で認知されている信念を、良さそうに見える、感じがフィットする、あの人が信奉しているなどの安易な理由で自分の信念と決めつけてしまうことです。実はその内容を十分に理解できていないにも関わらず(あるいは、だからこそ)です。半ば無意識的な行為でしょう。
これは夏休みの宿題の工作を完成品購入で済ますようなものなので、とても楽ちんです。
しかし、私としては、「自分へのレッテル貼り」は許されないとか、内容を完全に理解してからでないと信念を持ってはいけないと言うつもりはありません。それは個人の自由ですし、必ずしもベストではないとしても、それ自体が問題とは思えません。
重要なのは、自分の信念にその要素が含まれていることを自覚しているか、無自覚かです。もし賢明にもその自覚が十分にあれば、自分の信念を絶対化せずに相手の信念に耳を傾ける「健全な信念対立」に向かうはずです。
ビタミン or オイル 2012.3.16
私の研究U-1章 “不毛な信念対立”とは の 7 .おわりに において「人間科学の視点から研究」と書きましたが、この補足説明として本サイトでは何に関心を持っているかを例示したいと思います。「地球温暖化人為説」を例に、独り言の疑問文(青字部)の形で示しました。
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(信念対立)
地球温暖化の主因を人間活動とする人為説は現在主流となっているが、これを否定し主因は太陽等の自然変動とする科学者は少なくない。双方の科学者はともに真面目で勉強熱心な方々であるが、本案件は科学的事実であることからして必ずどちらかが間違っていることになる。
このような科学的事実においてすらどうして見解(信念)が対立するのだろうか? それは両者の知識が違うためだろうか? しかし、科学者であれば情報はいくらでも得ることはできるはずだが・・・。 では、両者の考え方が違うためだろうか? しかし、論理的な思考がそれほど食い違う、ましてや正反対となることはないはずだが・・・。 では、両者の価値観が違うためだろうか? しかし、科学的事実に非論理的な価値観は関係しないはずだが・・・。 本当に不思議なことだ。
(信念形成)
しかも、人為説の予測どおりに温度が上がっていくか否かで、この10年内には人為説の正誤に決着がつくはずである。つまり、双方の科学者は近い将来に社会的信用(へたすると科学者生命)を失うリスクを抱えながらも自分の信念を貫いているわけで、この「確信」は大変強固となっている。
もともと、その人のなかで信念が形成されるプロセスはどのようなものだろうか? そして、その「確信」はどこから来るのだろうか? それは知識の量? 思考の論理性? それとも、もしかしたら根拠のない思い込み? あるいは別の事情によってそう仕向けられているのだろうか?
(不毛化)
また、科学者は真実に対して謙虚で、自説の限界を知り異論には耳を傾けるのが普通であるが、こと温暖化論争になると急に不遜となり、聞く耳持たずの自説固執になっている。理性的で論理的な科学者ですら、信念対立の不毛化に簡単に陥ってしまっている。
不毛化を推し進めてしまう人間の心中では何が起きているのだろうか? 不毛化推進の原動力は何なのだろうか? よく言われている「聞く耳持たず」や「感情的になって」はいかにも人間の性から来ていると考えられるが、「二項対立化」「対立が対立を生む」なども人間の面からもう一歩踏み込むと何が見えてくるのだろうか?
(健全化)
人為説を前提にして巨額の温暖化対策費がすでに注ぎ込まれており今後さらに増額されるだろうが、もし人為説が間違いだった場合これらは全くの無駄金となる。このような不幸を避けるためには「真摯で有効な議論を尽くすこと」、すなわち「健全な信念対立」とするのが大変重要のはずである。
では、 “不毛な信念対立”から「健全な信念対立」への変換はどのようにすれば可能なのだろうか? その一策として不毛化推進の原動力を排除するにはどのようにすればよいのだろうか?
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以上の本サイトの関心の要点を一般化すると以下のようになるでしょう。
『どうして信念が対立?』(知識・考え方・価値観が違う?) (信念対立)
『信念形成プロセスは? その確信はどこから?』(知識量、論理性、思い込み?) (信念形成)
『どうして信念対立が不毛化?』(心中にあろう不毛化の原動力とは?) (不毛化)
『どうしたら健全化できる?』(不毛化原動力を排除するには?)
(健全化)
しかし、多くの方が関心を持たれるのは別のことだと思われます。最も強い関心は、もちろん「どちらの信念が正しいのか?」のはずです。その他「根拠はどれが妥当か?」「考え方はどっちが妥当か?」なども含めて対立している案件そのものについての関心が強いでしょう。
また、案件そのものではないのですが、それに関連して「どのようにして人為説が社会に認められたのか?」「人為説否定論の政治的な背景は何なのか?」「今後の勢力状況は変化するのか?」「この対立が温暖化対策国際協力にどのような影響を及ぼすのか?」なども関心事となるでしょう。
さらに、案件そのものから少し離れて「この対立を通して見えること、例えば環境問題の難しさ、あるいは科学での合意方法・科学リテラシー・リスクコミュニケーションの問題点など」に関心を持つ場合もあるでしょう。
つまり、多くの方の関心は対立している案件と直接あるいは間接に関係しており、主に自然科学や社会科学の視点からのものです。当然ながら、これらが案件に関する議論では中心的なものとなるべきです。
譬えで言えば、多くの方の関心は体を作るたんぱく質や力の元となる炭水化物ですが、本サイトの関心はこれらの動きをスムーズにするビタミンと言えるでしょう。エンジンの譬えでは、部品のピストン/シリンダーや動力を生むガソリンに対するオイル(潤滑油)となるでしょう。
「正義」対「正義」 2012.3.16
哲学者の森岡正博さんが「自分の正義 冷静に分析」との見出しのあるコラム記事を書いています。(朝日新聞 2012.2.27 朝刊 こころ欄)
「不正なことに対して、腹の底からふつふつと怒りが湧き上がってくるのは、人間にとってとても大切なことです。(略)しかし同時に私たちは、『正しい怒り』の罠についても、きちんと知っておかなければなりません。『正しい怒り』で胸がいっぱいになると、『怒っている私こそが正しいのだ』というふうに、私を正義の側においてしまいがちになります。すると私の正義を邪魔するものは『悪』である、(略)『悪』である彼らに正義の裁きを加えて社会を良くしていくためならば、こっちだって少々の『小さな悪』を行ってもかまわないはずだ、となってしまう」と、心の動きを解析しています。(図1)
そして、「歴史を振り返ってみれば、このような行き過ぎが何度も繰り返されてきました。」「ほんとうの意味での『正しく怒る』とは、(略)たえず冷静に自己点検しながら、その怒りのエネルギーを上手に正義へと結びつけていくこと」としています。
実に見事な解析で、「こっちだって少々の『小さな悪』を行ってもかまわないはず」が絶妙です。そして、森岡さんはその帰着を「行き過ぎ」としていますが、私としてはその帰着には
“不毛な信念対立”もあると考えています。
解析された心の動きには、“不毛な信念対立”への不可避性がよく示されています。ある案件に対してAさんが怒りの末に行ってしまう「小さな悪」は、Aさんと対立するBさんにとっては新たに怒りが湧き上がってくる「不正」となります。そして、Bさんも最後には別の「小さな悪」をしてしまいますので、今度はそれがAさんの怒りをさらに激しくさせる別の「不正」となります。そしてAさんもまた別の「小さな悪」を・・・・。(図2)
これは、「小さな悪」「不正」を再生産し、正義の怒りを激化させる負の連鎖であり、不毛への悪循環です。ちょうど、概要「“不毛な信念対立”について」の2.の後半で説明した「@→A→@’→A’となる悪循環」のひとつのパターンと言えます。
実際、「地球温暖化人為説」「原発の撤廃vs存続」「(低線量)被曝許容量」などの対立では、ネット上での「ウソつき!」の応酬や「***のウソ」と題した書籍などが目につきます。怒りに満ち溢れたものばかりです。ここで糾弾されている「ウソ」、すなわち「小さな悪」は、情報・データの作為的選択や信頼性欠如、主張の誇張・偏向、第三者に対する印象操作・世論誘導などでしょう。これらは、当の本人はほとんど意識していませんし、たとえそんな面も多少あるかもしれないと感じていても「正義」のためと気にもしていません。ましてやこれが「正義」に反するとはつゆほどにも思っていません。なにしろ「怒っている私こそ正義」なのですから。
しかしながら、対立者にとっては全く違います。これらは、全く許しがたい「ウソ」、とんでもない「不正」でしかありません。そして、これが対立者の心に「怒っている私こそ正義」を生成・増強していきます。
そして、このような状況が双方ともに出現しますので、結局は「正義」対「正義」と言う不思議な対立が出現します。ただ、その内実は罠にはまった両当事者による虚像の「正義」でしかありません。
実は、“不毛な信念対立”とされる事例では、そのほとんどが程度の差はあってもこのような構図を含んでいます。恐らく、皆様も思い当たる節があるのではないでしょうか?
次世代の若者への呼びかけ 2012.11.19
次世代(および将来世代)の若人の皆さん!
ぜひとも、“不毛な信念対立”を乗り越えるためのノウハウを洗練化し、それをマナーとして身につけてください。それは、必ずやあなた方の貴重な財産となります。
現代は、何ごとも話し合いで決めるシステムやノウハウが確立しつつあり、それを利用するのは現代人としての常識、当然のマナーとなっています。これと同形のことを、話し合いシステムの次ステップである“不毛な信念対立”超克においても実現していただきたいのです。この現代人の財産は、大昔の暴力でなにごとも決められる社会に比べるととてつもなく大きな恩恵となっていますが、同様に、あなた方の財産も現代人には羨ましい限りのものとなるでしょう。
まだ若いあなた方は、「“不毛な信念対立”は本当にバカバカしい。でも、どうせ偏屈オヤジや不真面目な輩が騒いでいるだけで、自分とは無関係」と考えているのではないでしょうか?
確かにバカバカしい限りなのですが、恐らくそれは質・量ともにあなたの想像をはるかに越えています。実際に、仕事上での対立から原発問題や地球温暖化問題までさまざまな所で“不毛な信念対立”が発生しています。しかも、そこでは無駄なエネルギーだけでなく、不毛故の判断ミスで関係者双方が大きな実害を被ることも多くなっています。これは、ある特定の環境・方向性のもとに存在している一個人・一集団の信念は如何ともしがたい限界を持っているからです。この限界を超える方法は、対立相手との建設的な議論しかないのです。
もうひとつ。実は、“不毛な信念対立”は決してあなたと無関係ではないのです。恐らく、あなたも否応なしにそれに巻き込まれることになり、そして、あなたが真面目であればあるだけ、そこで主役を演じることになるでしょう。“不毛な信念対立”はすべての人間が陥る罠なのです。人間の性とも言えそうです。
この難物の“不毛な信念対立”のない社会を実現するためには多くの努力が不可欠で、もしかすると暴力社会から現代までに要したものに匹敵するのかも知れません。でも、まず前進してみましょう。
実践に興味のある方は、自分が巻き込まれている“不毛な信念対立”に関して「状況の理解・分析」「解決法の検討」「実践とその評価」を進めてみてはどうでしょうか? うまく行かないことの方が多いかもしれませんが、その失敗が次の取り組みにつながるはずです
また、研究に関心のある方は、“不毛な信念対立”そのものを対象とした研究を進めてみてはどうでしょうか? 切り口はいくらでもありますので、ご自分の専門分野からのアプローチでいいのです。とても興味深く、しかも将来性のある研究テーマだと思います。
これらの実践・研究に少しでも貢献すべく、本サイトで“不毛な信念対立”についての初歩的な研究を進めています。参考としてもらえれば大変幸いです。
理学系学術論争と質の低い論争 2013.6.30
科学者である五味馨さんの下記ツイートは不毛な信念対立の点からも大変興味あるものです。
「(普通の)科学者と(三流)ジャーナリストの違いのツイートのまとめ」
これは福島原発事故直後の混乱した報道に関して書かれたものですが、
「(普通の)科学者」を本サイトで健全な信念対立の例としている理学系の学術論争における科学者に、
「(三流)ジャーナリスト」を不毛な信念対立の中でも特に質の低い論争を行なう人に、
それぞれ置き換えると、私としては思わず膝を打ちたくなります。
ツイート内容を、
(普通の)科学者 ・・・健全な信念対立である理学系学術論争での科学者
の形で整理しました。
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・自説を否定する事例を探す。
⇔ 自説を補強する事例を探す。
・反例が見つかると自説は否定されたと考える。
⇔ 反例を気にせず自説は証明されたと考える。
・ひとつの例では不安である。
⇔ ひとつ例が見つかれば大満足である。
・事実から論理を導き出す。
⇔ 論理にあう事実を見つけ出す。なければ創り出すこともある。
・相関関係が因果関係かどうかを考える。
⇔ 相関関係は因果関係だと考える。ただし因果の方向は任意である。
・抽出した標本が母集団を代表しているかどうかを考える。
⇔ 取材した対象が母集団を代表していると思いこむ。
・どの程度確かなのかを考える。
⇔ 絶対確実か絶対間違いだと考える。
・見つからないものはないのかもしれないと考える。
⇔ 見つからないものは隠されていると考える。
・誰の話を聞いても本当かどうか考える。
⇔ 話を聞く前に本当かどうかを決めている。
・話を聞いて理解できないのは自分の知識が足りないからだと考える。
⇔ 話を聞いて理解できないのは相手の説明が下手だからだと考える。
・分からなければ勉強する。
⇔ 分からなければ説明責任を追及する。
・量と反応の関係を考える。
⇔ あるかないかだけが問題である。
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ここで私たちが肝に銘じなければならないのは、「質の低い論争を行なう人」は特別な人ではなく、不毛な信念対立の状態では誰もが自分で気づかないうちにそのようになり得ることです。
STAP細胞は本当に存在する? 2014.4.30
STAP細胞に関する理研の調査委員会や小保方さん、笹井さんの会見において「STAP細胞は本当に存在するのか?」との質問が頻繁にありました。ネット上でも同様の質問を多く見かけますが、私はこの質問に違和感を覚えざるを得ません。
本来、現時点ではこの質問になんとも答えようがないのです。この質問は自然界の“真実”を問うています。そこで、“真実”にもっとも近い科学コミュニティでの“コンセンサス”をもって答えとしなければなりませんが、今はその基となるデータを調査している段階です。実際、会見ではこのような主旨の回答がその度になされていました。(小保方さんだけは「あります」と答えてしまいましたが・・・)
もっとも、「貴方は、STAP細胞は存在すると思いますか?」との質問は問題ありません。この質問は個人の“意見”を聞いているので当人なら答えられます。
ここで、@自然界の“真実”、A科学コミュニティでの“コンセンサス”、B個人の“意見”、と関連する三つの言葉が出てきましたが、これらをはっきりと区別することが重要です。
@の“真実”は間違いのない絶対的な真理であって、それは全能の神でしか知り得ないものです。能力の限られた人間には“真実”は隠されています。
そこで、人間たちがその“真実”に出来る限り近づこうとして一生懸命努力して到達した結論がAの“コンセンサス”です。つまり、“コンセンサス”は、実際には“真実”である場合も隔たりのある場合もあるのですが、いずれにしろ人間が成し得る範囲で最も“真実”に近いものとなります。これは共同作業による人間の英知の結晶であり、貴重な公共財産と言えます。
これに対して、Bの“意見”はあくまで限界ある人間一人の主張であり、“コンセンサス”のための素材でしかありません。
個人の思いとしては自分の“意見”こそ正しいと考え勝ちですが、実際には癖のある我流であったり井の中の蛙であったりします。
冷徹で奥深い自然界の“真実”に迫るには、まずこの個人の思いを捨て去った上で、確かなデータ(証拠)を収集・提示し、真摯な議論を尽くしてコミュニティでの“コンセンサス”を形成していくしかありません。
手間・時間もかかる面倒な方法ですが、これのみが“真実”に迫るための正しき道、言わば「真実への正道」です。(下図)
「真実への正道」に従うべきことは科学者では骨の髄までしみ込んでいますが、一般の多くの人々にはあまり理解されていないことが分かりました。私はあたりまえのことと思っていたのですが、冒頭の質問によってはじめてそれに気づいたのです。
そして、本サイトの趣旨がそのような人々にも分かってもらえるのか大変不安となりました。
本サイトでは、(骨子としては)「世の中には多くの“不毛な信念対立”があるが、両当事者による真摯な議論によって、真実により近い信念を見出すことが出来るはず」としています。そして、その成果を上げている実モデルとして理学系の学術論争を挙げており、それはまさに「真実への正道」をベースとしているのです。
小保方さんはSTAP細胞に関するデータを収集し、これらを証拠にして論理を組み立てて「STAP細胞は存在すると推測される」との“意見”を持つようになりました。これらを明示したのが小保方論文です。
ただ、データと言っても決定的な証拠から傍証的なものまでありますし、見方によっては証拠にはならない、あるいは信憑性がないと判定されるものもあります。小保方さんが200回成功したのは傍証的ですし、決定的証拠に近いキメラマウスは信憑性が疑われています。また、論理と言っても単純明快なものから多少無理のあるものまでありますし、致命的となる論理の間違いや抜けもあり得るでしょう。
このため小保方論文に対して「過去何百年の生物細胞学の歴史を愚弄」との反対意見、あるいはES細胞混入など疑問点(要確認点)の指摘も出ますし、今後追試で同じようなデータが得られて賛成意見が出ることもあり得ます。
そして、これらの意見が学術会議で直接論議されたり、学会誌に掲載されたりして真摯な議論が積み重ねられていきます。また、別の研究者から新しい実験や論理が提示されることもあるでしょう。まさに、科学コミュニティでの共同作業となります。
このようにして、もしうまく行けば、データはだんだんと洗練されてついには決定的証拠が得られ、また論理(理論)も確立して科学コミュニティ内で「STAP細胞は存在する」との“コンセンサス”が形成されます。
しかし、うまく行かなければ、議論は盛り上がらず、本人がいくら熱心に主張し続けてもコミュニティの関心はだんだん薄れて、いつかは消え去ります。(残念なことに、STAP細胞はこの傾向を示しはじめているようです)
どのような“コンセンサス”となるか、あるいは消え去るかの最終結果は、誰も知り得ませんし、もちろん個人の思いとは全く無関係です。小保方さんがどれだけ強くSTAP細胞の存在を信じていても、それは最終結果と何の関係もありません。
また、個人が提示した証拠やそれによる個人の“意見”は不可欠で重要ではありますが、それだけでは素材でしかありません。200回も成功したからSTAP細胞は存在しているはずと小保方さんが主張しても、それはひとつの素材となるだけです。
コミュニティでの共同作業によって最終結果は自然に決まっていくのです。そして、それこそ“真実”にもっとも近いものとなるのです。
以上が「真実への正道」の説明、以下が信念対立全体との関係の説明です。
“不毛な信念対立”は「議論をしても成果が実らない、あるいは議論すらなされないもの」、“健全な信念対立”は「議論による成果を実らせて自分たちの考えを発展させるもの」です。
そこで、これらを「真実への正道」の言葉に当てはめると、個人の“意見”のまま留まっているのが“不毛な信念対立”、真摯な議論が行なわれているのが“健全な信念対立”、“コンセンサス”が得られるのが“対立解消”になります。
つまり、目指すべき“不毛な信念対立”→“健全な信念対立”、→“対立解消”のプロセスは、「真実への正道」をベースにしています。
特に、“不毛”→“健全”でのポイントは自分の“意見”を客観視する(例えば、自分の“意見”こそ正しいとはしない、自分への反論を真剣に受け止める、相手の意見をむやみに否定しない)ことですが、これは「真実への正道」で個人の“意見”をひとつの素材にしか見なさないことをベースにしています。
このように「真実への正道」の知恵を生かすことによって、(基本的には) 感情も入って先鋭化しがちな“不毛な信念対立”を、理性的・合理的に解決へ導くことが出来るはず、と本サイトでは考えています。
なお、信念対立には案件が客観的事実に関するものと事実以外の価値観などに関するものがありますが、この前者に関しては「真実への正道」がそのまま当てはまります。後者でも価値観の前提としていくつかの事実が設定されている場合が多いので、その事実には当てはまります。
朝日新聞への投稿文
朝日新聞の声欄に投稿した一文が残念ながらボツとなったようなので、ここに掲載します。
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池袋暴走事故と「リスク社会の責務」
池袋暴走事故の容疑者に対する国民の怒りはとても激しかったが、この悲劇を「リスク社会の責務」とともに忘れないようにしたい。
まず社会として反省すべきは、高齢者事故が多発していたにも関わらずリスクの認識・対策が甘かったことで、これは幼児虐待や豪雨災害などの急増リスクでも然り。少なからずの従来リスクでも同様である。
「リスク社会の責務」とはこれら諸リスクのトータルを最小化することであり、そのためには@リスクをよく理解し対策の必要性を訴える、A他の社会問題やリスク内でのバランスをとって対策を実施する、Bこの動きを監視し必要とあらば厳しく批判する、等の地道な活動が不可欠となる。@Bは世論の役目である。
そこで、国民個人としては悲劇勃発後の怒りや無念さをそのまま終わらせることなく、それらを「二度と犠牲者を出させない」との意思に昇華させて、“事後ではなく事前、一過性ではなく継続、感情ではなく理知”となる実践に取り組むことが「責務」となろう。
たとえ関心を持ち続けるだけの最小限の実践であっても、それが社会に広く定着すれば実効性のある様々な実践が自ずと呼び起こされ、かの役目を果たす世論が形成されるのではないだろうか。
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