雑感      原発   F-300



 
御用学者リスト
  2012.1.23

 「原発業界御用学者リスト」 というサイトがあります。注) このサイトは「国民の健康を守るためには、御用学者を危機の初期段階で明らかにし特定し、その言論に対して人々が疑いの目を向けるようにする必要がある」とし、脱原発の敵(御用)と味方(非御用)それぞれ約200名もの学者・文化人をリストアップしています。

 いわゆるレッテル貼り(単純な類型への勝手な決めつけ)なのですが、恐らく原発反対および原発推進の信念を持つ双方の人に重宝されるのではないかと思います。

 とても固い信念を持っている人でも、工学・医学・環境・エネルギーなどが絡む複雑で奥の深い原発問題のすべてを理解しているわけではありません。そこで、いろんな意見のなかに、自分ではその良し悪しを判断できないものに遭遇することが多々あるでしょう。さあ、困った・・・。
 でもこのサイトで一件落着。意見の中身とは無関係に、敵か味方かで簡単に判断できてしまいます。敵ならウソと自信を持って言い切れますし、味方ならそのまま受け入れてしまいます。最初から敵の意見には耳をふさぎ、味方の意見のみを聞く手もあります。

 当然ながらこれは本末転倒なのですが、固い信念を持っている人は何の問題も感じません。そして、自分の頭では考えずに自分に都合のよい『情報』ばかりを収集していくので、自分の信念には歪みが発生していき、信念対立はますます敵か味方かの単純な二項対立となります。
 これも“不毛な信念対立”の悪魔の奸計のひとつで、『偏見』や『ひいき』が巧妙に使われています。


 注)理由は不明なのですが、本来のサイトは2012年12月11日に閉鎖されました。ただし、その非公式なアーカイブが下記にあります。
    http://web-beta.archive.org/web/20120920023646/http://www47.atwiki.jp/goyo-gakusha/
    http://www50.atwiki.jp/goyo/



 
大切なのは子供たちの命? お金?
  2012.1.23

  1月14日の脱原発世界会議の開会式で、福島県の小学4年生の富塚悠吏君が「国の偉い人に聞きたい。大切なものは僕たち子供たちの命ですか、それともお金ですか」と壇上から訴えました。
 私は、わずか10才の子供までがこのように飛躍した論理と単純な善悪二元論の「歪んだ信念」を持ち、しかもそれを公に宣言したことに少なからずのショックを受けました。

 良識ある大人が自分の信念を形成する際には、十分とは言えないまでも対立者の言いたいことは理解しようとし、恐らくはそれを完全に否定しきれない悩みも抱えるはずです。しかし、「自分へのレッテル貼り」 (雑感-7) の助けも借りて一旦信念が確定してしまうと、対立者への理解や悩みは隠蔽されてしまいます。そして、シュピレヒコール的な言説は、いきおいストレート(論理飛躍など)でセンセーショナル(善悪二元論など)なものとなります。
 恐らく富塚君は、脱原発陣営のシュピレヒコール的言説のみをそのまま鵜呑みにしてしまったのではないかと思います。

 このようにして、彼は生まれてはじめてであろう自分の信念を、一面的・表面的で無思考・無批判の理解による「歪んだ信念」にしてしまったわけです。ものごとを多面的に見る、内面を見る、深く考える、批判的に考える、自分の考えを絶対化しないと言うのは教育の重要なポイントだと思いますが、これが見事に損なわれています。対立者への理解や悩みこそ学ぶべきだったと思います。
 しかも大観衆の喝采がそのプロセスを是認し、信念を絶対化してしまいました。言葉が過ぎるかも知れませんが、これは結果的には一種のマインドコントロールに近いものになってしまったのではないでしょうか? 

 残念なことに、このような子供への一方的な教育は、程度の差はあれ世の中でいくらでも行われています。特に世代継承を必要とする集団では、生存原理から当然なのですが、この種の教育は徹底しています。
 そして、これらが“不毛な信念対立”の深化と再生産の一因となっています。とても深刻な問題です。

 しかし、実は、私は富塚君には期待しているのです。彼は「なんとなく怖い、って気持ちだけじゃ、きっと脱原発運動は流行みたいに終わっちゃう」と鋭い意見も言っています。ぜひとも、現在 “不毛な信念対立”となってしまっている被曝問題を踏み台にして、そして自分の「歪んだ信念」を自らの反面教師として、将来の同種問題において「健全な信念対立」を主導してもらいたいと思います。そうなれば「人の役に立つ仕事をしたい」との彼の夢はしっかりと実現したことになると思います。がんばってください。



 
全否定に対しては全否定で対抗
   2013.8.19

私が言いたいことをスパッと言い当てているブログを見つけました。

開米瑞浩氏による誠ブログ「開米のリアリスト思考室」の中での原子力論考(9)
http://blogs.bizmakoto.jp/kaimai_mizuhiro/entry/2822.html です。

本サイトは「“不毛な信念対立”では双方がともに不利益を被っているのではないでしょうか?」(トップページ前文)が出発点となっていますが、本ブログではこの「不利益」のひとつのパターンとなる事例が説明されています。
私がへたに解説するとかえって分かりにくくなるので、ほぼ全文をそのまま引用させていだきます。

*********(引用 はじめ)**************

人は全否定に対しては全否定で対抗せざるを得ない

 ある政策について反対するとしましょう。

 その場合でも、同じ「反対」であっても、目指すゴールをどこに設定するかによって大きな温度差が生じるものです。

 

    全否定派  :1ミリの妥協の余地もなく即刻全面中止を求める立場

    段階的撤退派:時間をかけて少しずつ中止していこう、という立場

    許可条件派 :欠陥が改善されるならばという条件付きで推進を認める立場

 (略)

 問題は、反対派に「全否定」路線で来られた場合は、賛成派も逆に「全否定」で返すしか無くなってしまうということです。

 

 仮に、反対派の指摘する危険の一部が事実だったとしましょう。


    反対派:A、B、Cという3つの危険があるから即刻中止を求めます!

    賛成派:AとBは間違いです。Cの危険は確かにありますが発生する恐れは低いので順次対応を進めていく予定です


 と賛成派が正直に「Cのような危険がある」と答えたら、何が起きると思いますか?

 「全否定」を目的としている反対派は、その回答を持ち帰って仲間内で大宣伝を繰り広げるんですね。


    ○○電力自身が認めたCの危険性!!

    このような危険な原子力発電を絶対に許すことは出来ない!!

    我々はあくまでも即刻全面中止を求めて戦います!!


 と、こういう調子でです。

 (略)

反対派は、結果的に安全性の向上を妨害してきた

 本来であれば、賛成派と反対派の間ではこんな議論が行われているべきでした。


    賛成派:C、D、Eのような危険は確かにあります

    反対派:それらの対策は可能なのですか?

    賛成派:可能ですがすべての対策を取ろうとすると予算が足りません

    反対派:では・・・・


 この後の反対派の対応として次の2種類が可能です。

    【段階的改善】では優先順位を我々と協議しましょう。その上で順次実行してください

    【許可条件付け】では予算をとって実行してください。それまでは認めません


 このどちらかであれば意味がありました。どちらを選ぶにしても安全性は向上します。

 しかし現実に反対派が取ってきたのは「全否定」的な対応です。「全否定」の結果実際に原発を止められたのか、というと現実にはほとんどできませんでした。

 

 逆に、その全否定的な対応への対抗として「絶対安全」と言わざるを得なかったがために、電力会社も国も原発事故を想定した防災計画を立てて訓練を行うことができなくなりました。

 (略)

 結果として、「原発は危険だから止めろ」と叫んでいた反対派自身が、原発の安全性向上を阻害していたのが現実です。このことは、大いに教訓とするべきでしょう。

**********(引用 おわり)*****************



 
囚人のジレンマ
 
 2013.11.29

上記「全否定に対しては全否定で対抗」にて“不毛な信念対立”の一パターンである「全否定に対しては全否定で対抗」を分かりやすく説明した文を紹介しましたが、これとほぼ同じ内容をゲーム理論の「囚人のジレンマ」から説明した文を見つけました。

武田徹氏による「原発論議はなぜ不毛なのか」(中公新書ラクレ458)p29 から引用させていただきます。(文章はほぼ原文のまま、図は一部を変更)

*********(引用 はじめ)**************

「囚人のジレンマ」とは・・・ 同じ事件に関わって逮捕され、別々に独房に収監された2人の囚人がいる。互いを信じて黙秘を続ければ、取り調べは暗礁に乗り上げて、両者とも無罪放免されるのに、実際には「仲間が裏切る」と考えて、自分から司法取引に応じて犯行を告白してしまう。こうして両者ともに罪が確定し、刑に処される。

これは「人間は利己的である」ことから導かれた必然だとされる。相手を信じられず、自分の利益だけを最大化しようとした結果、「最良」の結果を選べない。

 

これと似た構図が原子力をめぐっても当てはまる。ここで反対派をA、推進派をBとしよう。反対派は、今後も積極的に反原発運動をする(A+)か、もはや反対運動をやめる(A−)か、二つの選択肢を持っている。推進派も同じで、今後も原発を維持、増設していく(B+)か、原発政策を放棄する(B−)かの選択肢を持っている。

反対派は原発の即時停止を求め、反原発運動を続ける(A+・B−の状態を望む)。一方で推進派は「原発がいかに安全か」をさまざまな機会を通じて訴え続け、反原発運動を鎮圧しようとする(A−・B+の状態を望む)

こうして両者が自己の主張を貫き、相手の主張を拒否するので、(A+B+)の状態が続く。つまり反対運動が続く一方で、原子炉の維持、増設が続くわけで、これが原子炉の安全性確保に多大な影響を与えてしまった。日本原子力研究所が93年から受動的安全炉(冷却水が喪失すると動力なしに外のプールから水が自動的に注入される)の研究に着手していた。だが、その成果はほとんど報じられなかった。



なぜか。より安全な炉があると認めれば、すでに稼動している原発の安全性に問題があると認めることになる。強まる反対運動によって原発に不安を感じ始めた国民に、「より安全な原発がありました」と認める訳にはいかない。だったら危険な炉を停めろと言われるのを恐れて、受動的安全炉の存在すら許容できなかったのだ。

こうして反対派と推進派が互いに不信感を抱いて一歩も引かずににらみ合ってきた構造が原発のリスクを増大させてきた。

そんな経緯を考えると、本当に選ぶべき状態は(A−・B−)の選択肢だった。推進派は反対派の主張に耳を傾け、「原発は絶対安全」のプロパガンダをいったん取り下げて、今のまま推進を続けるのではなく、より安全で安心できる原子力利用の道がないか、検討していく。一方で、反対派も「原発の即時廃止」という姿勢を緩め、漸次的にリスクの総量を減らす選択を、政府や電力会社が取ることを認める。こうして両者がわずかにでも信頼し合うことで、選択の幅を広げてリスクの最小化をめざしてゆく。

しかし、原子力をめぐる囚人のジレンマによって、こうした道は選べなかった。 

**********(引用 おわり)*****************

A+B+)が“不毛な信念対立”であり、(A−・B−)が“健全な信念対立”であることは説明不要だと思います。

これらを図2にまとめました。