川辺川ダムでの「不毛な対立」   F-9-4



V. 「不毛」の分析
ここでは上記で浮かび上がった「不毛」の構造を分析することにします。


1. 要素
分析ツールとして「信念」「思い込み」「感情」「損得」の4つの「要素」を定め、特に不毛を引き起こすものを「不毛要素」とします。
「要素」が(不毛不問の)一般の対立を成り立たせている成分であるのに対して、「不毛要素」は「不毛な対立」の成分であり「不毛」の要因とも言えます。


(不毛要素の考え方は別論考である「様々な社会問題での『不毛な対立』」のUをベースにしている)

一応、文中の表記としては「要素」は一重括弧(「信念」「思い込み」「感情」「損得」)、「不毛要素」は二重括弧(『信念』『思い込み』感情』『損得』)としますが、両者は連続的で混沌としているので厳密には区別できません。

1)「信念」
「信念」を「心の拠り所となっている、正しいと固く信じている具体的な考え」と定義します。価値観・思考(考え方)・情報の三本柱になっており、価値観は人それぞれで構わないものの思考は適切であり情報は正確でなければなりませんが、これを満足せずに「不毛」を引き起こすものが不毛要素の『信念』となります。「不毛な対立」で最後まで残る厄介な不毛要素です。

信念はその人にとって重要なものですが、それだけ大きな影響力を持っているので強力な「不毛」を引き起こします。

2)「思い込み」
「思い込み」を「安易な独りよがりの固定観念・先入観」と定義します。本来、固定観念・先入観は信念とは違って客観的な反証が理解できれば容易に修正され得ますが、理解力の不足などが原因で修正できずに「不毛」を引き起こすものが不毛要素の『思い込み』となります。

その結果、不確実性に対する期待を込めた楽観的観測(あるいはこき下ろしの悲観的観測)や正/誤単純化(あるいは良/否・善/悪単純化)などの様相を呈します。

「思い込み」は誰でも避けられないものであり、ひとつひとつは大したものではないのですが、それが多数になると「不毛」を引き起こします。

3)「感情」
「感情」を「怒り・不安などの感情、および情緒・情感」と定義します。対立で「感情」が湧き上がるのは自然なことですが、過剰となって制御できなくなったものが不毛要素の『感情』となります。

その結果、“感情的”となって客観性や論理性の欠如などの様相を呈します。

また、自然発生だけでなく他からコントロールされやすくなっています。

4)「損得」
「損得」を「物質/精神面での損得勘定」と定義します。社会的な功名・悪評なども含みます。軽率な利害当事者や利己的な非当事者によって「不毛」を引き起こすものが不毛要素の『損得』となります。

利害当事者が損得勘定で行動するのは当然なことですが、真剣に考えない、被害妄想に陥るなどのために本当の「損得」を見誤ってしまうことがあります。また、不当にも非当事者が自分の「損得」を優先させることもあり得ます。


2. 主張での「不毛」
上記U 1. で示した主張での「不毛」を三つの構造(根源・骨格・血肉)ごとに分析します。
2-1 誤った事実判断 (「不毛」の”根源”)
@「川辺川ダムの全否定」 
この主張は彼らの「信念」そのものですが、きわめて頑なで、独善的・排他的・絶対的な『信念』となっています。
そのため、関連する事実判断に干渉してそれを捻じ曲げています。


本来、事実判断が正しくあるためには他からの圧力があってはなりませんが、この『信念』から、単なる圧力を超えた干渉を受けて事実判断の多くは誤ったもの、少なくとも正しいとは言いがたいものになっています。

もし、「メリット・ディメリットをよく比較検討すべき」「感情的ではなく科学的に判断すべき」「一方の主張だけを信用しない」などの柔軟で協調的・開放的・相対的な「「信念」であったとすれば干渉はなかったはずです。

結局、頑なな『信念』により多数の「誤った(正しいとは言いがたい)事実判断」が造られてしまいました。(下図) 

これが「不毛」の”根源”になっています。


 


2-2 派生『信念』の連続体 (「不毛」の”骨格”)
A「国の基本高水は誇大」
 
この主張は「川辺川ダムの全否定」から干渉を受けてしまった代表的な事実判断ですが、これが単なる事実判断を越えた新たな『信念』に転化していたようです。

そして、この転化も「川辺川ダムの全否定」から干渉を受けています。(次編で詳述)

新たな『信念』は元の信念から派生した『信念』と言えます。(下図)


  

派生『信念』には、たとえ事実判断に誤りがなかったとしても次のような問題があります。
本来、事実判断はデータが変われば更新される柔軟性を持っているのですが、「信念」は堅固に守るべきものになってしまいます。また、「信念」は価値観・思考・情報の三本柱によって十二分に吟味されて形成されていくものですが、ここにはそのプロセスが抜けています。

さらにこのパターンは繰り返すので同じ傾向を持った派生『信念』の連続体が成長していきます。(下図)これらが、いわば「不毛」の“骨格”になっています。


例えば、「国の基本高水は誇大」→「過去の最大高水も怪しい」→「ダムによる高水低減効果はもっと怪しい」と成長するでしょうし、別方向への成長では→「国の説明はウソばっかり」→「我々は国交省利権の犠牲にされる」にもなります。

B「ダムが水害を起こす」
この主張は信仰化により『信念』に転化しています。転化の端的な形です。

根拠としている「市房ダムの緊急放流が水害を起こした」は”都市伝説”でしかありませんし、緊急放流はダムがない時の流量に戻るだけです。

実際、脱ダム関係者も無理があると感じつつも宣伝効果があるために喧伝し続けていたと思われます。

しかしながら、それを繰り返すうちに次第に確かな根拠のある事実判断と確信するようになり、さらにいつのまにか新たな『信念』になってしまったようです。

これは信仰化とも言うべきものであり、悪い意味でのお題目・信仰箇条と同じように思えます。

ここでの連続体の例としては「ダムが水害を起こす」→「市房ダムより何倍も大きい川辺川ダムの緊急放流では以前の何倍もの被害がでる」→「緊急放流どころか世界の大事故(決壊や地滑りによる大量越水など)並みの被害を起こす」となるでしょう。

ちなみに、脱ダム関係者の「川辺川ダムの全否定」も脱ダム基本概念の「信念」からの派生『信念』である可能性もあります。


2-3 影響された「思い込み」 「不毛」の”血肉”)
C「清流が失われる」

この主張は「思い込み」の域を出ていないと言えます。
根拠はきわめて希薄ですし、国交省の見解には反論できず四万十川の例も無視しています。

 一部の脱ダム関係者は「信念」にしているようですがこれは別として、多くの人々がこの主張に同意しているのは彼ら推進者から誘導(刷り込み・説得)された結果だと思われます。

また、メディア・世論、地域・場、仲間の雰囲気などの、いわゆる“空気”に反応した(空気を読み取った、空気から圧力を受けた)結果とも思われます。

いずれにしろ、自分の中から生まれてきたものではなく他者から影響された「思い込み」となっています。

 特に、実際には大きな幅のある水質レベルを全く無視して「清流」か「死の川」かとしている点で、「思い込み」の様相の一つである正/誤単純化が強くなっていると言えます。

Dダム以外の治水が可能」
この主張も他者から影響された「思い込み」となっていると言えます。

特に、正常性バイアス(自分にとって都合の悪い情報を無視したり過小評価したりする認知特性)による期待を込めた楽観的観測となっています。

E「国交省は”悪人”」
この主張も他者から影響された「思い込み」で、一番手っ取り早く、とても有効な反対手段である善/悪単純化となっています。

 

C〜E以外でも「思い込み」での楽観的観測は、上記(U 1.)のF「破堤しない堤防さえあれば・・」、G「・・・人的被害はほとんど起きない」、H「・・・”緑のダム”は復活した」などにも見られます。

真逆の悲観的観測は「死の川」「合流部に”一本の線”」「過去の環境対応が不充分なダムや堆砂の激しいダムの例」などにもありますし、BCにもその傾向が見られます。

もう一つの正/誤・良/否・善/悪単純化はほとんどの主張に見られます。

また、「感情」「損得」も他者から影響されます。

  

「不毛な信念対立」では誘導・反応ともに活発になるので、これらのような影響された「思い込み」などが溢れかえることになります。

これが、いわば「不毛」の“血肉”になっています。


2-4 重み付け
反対運動の主張は以下のようにまとめられます。


上表では主となる要素だけを示しましたが、各要素の重み付けは下表のようになっています。



なお、『感情』は各主張で散見されますが、なかでもCでの「科学的な清浄以上のもの」「ダムによって “穢れてしまう”」やEでの“悪者”では目立っています。

また、これらの主張が三重の損を導いたわけなので、すべてに『損得』がありました。


3. 姿勢での「不毛」
上記U 2. で示した姿勢での「不毛」を分析します。

1)国交省・・・パターナリズム
「ダムは有用」は事実判断に関する「信念」ですが、「住民を守るべき」は価値判断に関する「信念」であり過剰ともいえる使命感を伴っています。そのため、前者には問題なかったものの後者によって強いパターナリズムを呼び起こし、肝心な住民意識からのずれを発生させてしまいました。

また、組織の防衛・守旧等のための「損得」は少なからずあったはずですが、「感情」「思い込み」はほとんどないと思われます。

2)マスメディア・・・”事実に角度を付けている”
“社会の木鐸”と“正確・公正”はともに使命感を伴った「信念」となっていますが、前者の使命感が過剰なため後者が薄弱になり、 “事実に角度を付けている”になってしまいました。

また、私企業であるがために発行部数・視聴率アップの「損得」からは逃れられません。

特に、毎日記者では「環境破壊は許されない」との個人的な『信念』が大変強くなっています。
また、「ダムがなくても人的被害は出るはずがない」とのきわめて意図的な「思い込み」、および「ダム関連はすべてが悪」と単純化する「思い込み」があるようです。
情緒的に”心情に訴える”「感情」も目立ちます。

なお、環境破壊や水没地の悲劇を強く訴えているものの、比較し得ないほど大きな水害犠牲者の悲劇には思いが至らなかったのかと不思議に感じてしまいますが、人的被害は出ないとの「思い込み」に陥っている本人としては何の疑問も感じなかったのも当然かも知れません。

3)脱ダム活動家・・・”正確・公正”を欠く
「ダム全否定」や上記主張@〜Bはまさに独善・頑迷の『信念』となっており、住民立場からのずれを発生させましたし、”正確・公正”を欠くことや国交省への誹謗中傷などの確信犯的な行動はこの『信念』で正当化されています。

また、様々な派生『信念』の連続体を成長させ「不毛」の“骨格”が造りあげられています。

さらに、”心情に訴える” 、 “煽る”形での「感情」は住民コントロールに成果を上げています。

その他、「ダムは大嫌い」との自分の「感情」「ダムは問題だらけ」との「思い込み」、および政治的な思惑や自分の職業的立場などの非当事者としての不当な「損得」もあります。


地元活動家には「損得」はありませんが、今回ほどの大惨事は発生しないはずとの意図的な「思い込み」がきわめて強かったようです

4)脱ダム学者・・・活動家になっている
活動家と同じ独善・頑迷の『信念』のため、学者本来の「信念」であるべき”真実”追及は薄弱になっていました。


また、万一川辺川ダムは必要と感じつつ否定したとして、その理由がダムは必要と言えば脱ダム関係者から批判されてしまう、あるいは脱ダム運動に水を差してしまうとのことであれば、前者は個人的な、後者は公的な非当事者としての不当な「損得」潜んでいたことになるでしょう。

5)住民・・・理解力が不十分
脱ダム関係者の“空気”に影響された「思い込み」に振り回されてしまいました。
また、”心情に訴えられた” 、“煽られた”「感情」に流されてしまいました。


なによりも、ダムによる受益者であるにも関わらず、軽率にも「ダムは損」と見誤ってしまう『損得』で三重の損を被ってしまいました。

残念ながら、その住民が情報リテラシー不足故に「不毛」の“血肉”を造りあげる主体となっていました。

主張での主な不毛要素と特徴は以下のようにまとめられます。

 


各要素の重み付けは下表のようになっています。

なお、『感情』はすべての関係者で散見されますが、なかでも住民では“煽られる”形で目立っています。

また、『損得』は住民に大きかったわけですが、他の関係者にも非当事者としての不当な『損得』がありました。



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