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川辺川ダムでの「不毛な対立」
U 「不毛」の状況
反対運動での主張と各関係者の姿勢から「不毛」の状況を明らかにします。
1. 反対運動での主張
1-1 正/誤
まず、脱ダム関係者が異口同音で述べた主張の正/誤を確認します。
以下が代表的なものですが、(⇒ )に示したようにAは明らかに誤っていましたし、他もとても正しいとは言いがたいものばかりです。
@「川辺川ダムの全否定」
(⇒川辺川ダムがあれば被害は大幅に減っていました)
A「国の基本高水は誇大」
(⇒誇大ではなく、むしろやや少な目でした)
B「ダムが水害を起こす」
(⇒市房ダムは氾濫量低減に貢献しました)
C「清流が失われる」
D「ダム以外の治水が可能」
(⇒10年以上検討しても意見がまとまりませんでした)
E「国交省は”悪人”」
(⇒主観的な個人意見にすぎません)
F「破堤しない堤防さえあれば越水しても大災害とはならない」
(⇒越水だけで大きな被害が発生しました)
G「流域住民は災害に慣れているので、すみやかに避難して人的被害はほとんど起きない」
(⇒犠牲者のほとんどが逃げ遅れのためでした)
H「川辺川ダムの本体着工をまたずして”緑のダム”は復活したのだ」
(⇒豪雨にはほとんど意味がありませんでした)
このように反対運動での主張には「誤った(正しいとは言いがたい)事実判断」が多数であったと言わざるを得ません。注)
特に、決定的な争点である基本高水の事実判断においては「国の基本高水は誇大」と強く主張していたにも関わらず、その誤りが判明した後にはなんの説明も釈明もなく基本高水には一切触れなくなりました。これでは過去・現在・将来のいかような事実判断も信用できなくなります。
注)事実判断とは「どうだったか」の判断。一方、価値判断とは「どうあるべきか」の判断。「(ダム建設には反対だが)ダムがないと洪水する」は事実判断、「(洪水するとしても)ダムは建設すべきでない」は価値判断。事実判断には正誤があるが、価値判断に正誤はなく人それぞれで構わない。
1-2 内容
主張の@〜Eは特徴的となっているので下記にて検討します。
@「川辺川ダムの全否定」
脱ダム関係者は「川辺川ダムは全く意味がない、全否定されるべき」」と強く主張しています。
特定のダムの要/不要はそこでの特有な諸条件によって判断されるべきであり、実際、「川辺川ダムは必要」と多くの専門家から指摘されていましたが、彼らはこれらを全く無視して脱ダムの基本概念をそのまま持ち込んでいます。
一見すると、A以下の主張から「川辺川ダムの全否定」が導かれたようにも思えますがこれは逆であり、すべての主張が「川辺川ダムの全否定」から導かれています。
これが本論考のキーとなります。
A「国の基本高水は誇大」
脱ダムの活動家・学者は人吉地区での基本高水はせいぜい5400トン/秒であると主張し、これをダム不要の最大かつ絶対の根拠としていました。注1) そして、「国交省見解の7000トン/秒は誇大」「科学的な捏造」「ダム建設に導くための作為的な数値」旨の激しい批判を繰り返していました。注2)
実際には、今回は8000トン/秒であり、うち500トン/秒は市房ダムで削減しました。
確かに5400トン/秒であればダムの必要性は低いので住民のダム反対はごく自然な流れになります。そのため、この主張はダム反対運動には絶対必要であり、しかもきわめて有効でした。しかしながら、結局、活動家・学者の信用は大きく損ねてしまいました。
本来は、国交省の見解をしっかり精査すべきでしたし、同時に、もっと根源的な問題として基本高水の意味を問い、予測困難な豪雨にどのように対応すべきかを問うべきでした。
注1)基本高水とは設定した期間内で最大となり得る各地点の流量で、これを基にして治水計画が定められる。国交省は、人吉地区での80年間での基本高水は7000トン/秒であり、河川整備だけではこれに対応できないので川辺川ダムが必要であるとしていた。基本高水はダムの要不要に直結する上、様々なデータと仮定から推測するので関係者で対立することが多い。
注2)たとえば、2006年4月から開催された国交省の河川整備基本方針小委員会に毎回、計11通の意見書を提出しているが、うち8件が7000トン/秒に対する批判だった。
B「ダムが水害を起こす」
脱ダム関係者は「”緊急放流”を行うダムは危険」、さらには「ダムが水害を起こす」と喧伝することが多くなってきましたが、実はこの出所は人吉地区での”都市伝説”のようです。注1)
”緊急放流”との用語にはいかにもため込んだ大量の水を一気に放流させるようなイメージがあって恐怖を感じる人も多く、宣伝効果はかなり高いものとなっています。そこで、脱ダム関係者がこれを全国区に広げたように思えます。
しかしながら、実際は”緊急放流”はダムがない時の流量に戻るだけですし、しかもその開始を時間単位で遅くするので避難には非常に有効となっています。
本来なら、被災者は水害の恐ろしさを正しく伝えるべきなのに、間違ったことを教えてしまって不幸を繰り返したことにもなります。
注1)”緊急放流”とは、豪雨によってダムが満水に近づいた場合にダムへの流入量と同量を放流すること。市房ダム建設後の1965年水害の被災者から「”緊急放流”が行われて経験したこともない水位になった」「”操作ミス”でダムへの流入量以上を放流したはず」との噂がたち、これが次第にかの言説に発展したようである。被災者の証言集まで作られているが、いずれも根拠となるデータはなくあくまで個人の主観でしかない。しかも、管理者の熊本県によると「”緊急放流”は71年、82年、95年の3回だけで65年には行われていない」「”緊急放流”で水害が発生したとするのは”都市伝説”」とのことである。
注2)全国の年間水害犠牲者は1950年頃では1000人程度であったが、その後多くのダムが建設され2000年頃には100人未満にまで激減している。街中を含む長い区間が対象となる河川整備(引き堤・河道掘削・堤防かさ上げ)に比べて山間部の1箇所で済むダム建設は、河川部の環境保全も含めて総合的に有利となることが少なくない。
C「清流が失われる」
冒頭の母親はダム建設によって水遊びが出来ないほどの川になってしまうと信じているようですが、これは本当なのでしょうか?
ダム建設には水没地区が反対することは多いのですが、川辺川ダムでは治水の最大受益地(人吉地区)が強く反対し、その理由は先の”都市伝説”とともに「清流が失われる」となっています。それは、脱ダム関係者が盛んに「『死の川』に化す」とまで喧伝している影響でしょうが、実はその根拠は明確ではありません。注1)
一方、国交省は詳細な調査を行ない清流が維持されるとの見解を出していますが、これに対して科学的な反論もなされていません。注2)
また、「日本最後の清流」と言われている四万十川は支流を含め五つものダムがありますが、この事実は無視されています。
したがって、本来、脱ダム関係者は「清流が失われる」の真偽解明とその対応にこそ力を注ぐべきでした。まずは国交省見解をしっかり精査し、もし清流が維持されないのであればその程度(レベル)を明らかにし、清流と安全のレベルが示された複数の選択肢を提示すべきでした。
これこそ流域住民が真に望んでいる情報であることは明らかです。そして、もし四万十川と同じような状態になると分かったとすると、恐らく流域住民は安全が得られるダムに賛成していたでしょう。
しかしながら、脱ダム関係者は解明努力をせずに、「清流が失われる」と決めつけて盛んに「死の川」イメージを醸成していたように見えます。これは流域住民に対して決して許されない行為です。
ちなみに、ダムに反対する一部の人々は清流として科学的な清浄以上のものを求めており、ダムによって清流が“穢れてしまう”如きの感覚を持っているようにも思えます。
注1)根拠として市房ダムのある球磨川が川辺川よりも濁っている現象が挙げられているが、両河川のBOD量にほとんど差はなく、ともにほぼ毎年、国の「水質が最も良好な河川」に選ばれている。
注2)「川辺川ダム事業における環境保全への取り組み(2000年6月)」によると、現状ではアユ成育に影響のない濁度5未満の年間日数は308日であるが、シミュレーション結果よるとダム建設後には262日に減少するものの、選択取水機構の付加で289日、さらに清水バイパス付加で308日と同日数になる。平常時での濁度2未満は現状214日で、濁度5未満と類似の傾向となる、としている。
D「ダム以外の治水が可能」
冒頭の母親は、まさか子供を危険にさらすつもりはなく「ダムによらない治水が可能」と信じ切っているのでしょうが、残念ながらそうではないようです。
脱ダム関係者は「ダムによらない治水が可能」と強く主張しますが、実際に提示されるのは有効性や実現性の乏しい案が多いと言わざるを得ません。注1) 一時もてはやされた”緑のダム”は環境重視の人々にとって魅力的でしょうが、これでダム不要と決めつけるのはあまりにも無謀に過ぎます。注2)
川辺川ダムでも、結局、脱ダム関係者は有効かつ実現可能なダム代替案を提示することが出来ませんでした。 特に、ダム以外の対策を本格的に検討した2009年以降は代替案を実現できるまたとないチャンスであったのに、「国の基本高水は誇大」「環境破壊は許さない」等の意見を出すだけでした。
代替案の検討に積極的でなかったのは「せいぜい5400トン/秒」「破堤しない堤防さえ造れば」「流域住民は災害に慣れている」などと主張していたためと思われます。これらに固執せずに、氾濫を前提とした「ソフト対策」の充実を強く主張すべきでした。これなら費用も大してかからないので誰も反対しなかったはずです。注3)
この点では、脱ダム関係者は自分たちで「ダムによらない治水」をつぶしてしまったことになります。
注1)「脱ダム宣言」の田中康夫長野県知事がいろいろ模索した末に提案した「河道内遊水地」は流水型ダムだった。ちなみに、流水型ダムは川辺川ダムにも中止表明の前に提案されていたが受け入れられなかった。
注2)”緑のダム”とは樹木や土壌の保水力を増強した山林のことで、脱ダムの切り札として急浮上してきた。2004年からは効果を検証するために反対・賛成双方が参加して大掛かりな現地調査が行われた。民主党政権下の2009年には「緑のダム法案」の準備まで進められた。しかしながら、2011年の日本学術会議の正式見解では「森林は中小洪水においては洪水緩和機能を発揮するが、大洪水においては顕著な効果を期待できない」と否定的で、その後の研究でも”緑のダム”は豪雨対策にはなり得ないことが定説となっている。
注3)ソフト対策とは、災害発生時に情報(気象警報・注意報、避難情報、洪水予報など)を速やかに、かつ確実に伝達して被害を軽減する方法。事前のハザードマップ作成や避難訓練なども含まれる。
E「国交省は”悪人”」
これは主張と言うより誹謗中傷になりますが、脱ダム関係者は国交省の役人を利権だけで動いている”悪人”、ダムを容認する学者を権力に媚びる御用学者であると強く非難しています。そして「こんな輩の見解などは検討にも値しない(⇒それに対立する自分たちの主張はおのずと正当化される)」、「こんな輩と闘うためにはあらゆる手段を用いなければならない(⇒多少の誇張やごまかしは許される)」と展開しています。「だからダムは不要」との単純な結論づけすらあります。
これらの展開は反対運動には好都合となっているので「国交省は”悪人”」は盛んに喧伝されています。
ちなみに、逆に脱ダム学者は見識優れた”善人”で、信頼に足る人物とされています。
しかしながら、このような態度は自分たち、特に地元の脱ダム関係者にとって大変なマイナスになりました。自説の弱点、すなわち基本高水などの不適切な主張を修正できませんでしたし、国交省方針である住民意向の尊重、すなわち情報共有化や議論、提案の採用などの機会も逃していたように思われます。(役人も自分を”悪人”扱いする人間には関わりたくないでしょう)
”悪人”であろうがなかろうか、それを自分の利益となるようにうまく利用すべきでした。
なお、「”悪人”⇒ ダムは不要」は面倒な検討なしに手っ取り早く結論が得られるので本人にとっても好都合に感じられたはずで、ヒューリスティック(暗黙のうちに用いている簡便な解法や法則)として自ら積極的に利用した面もあるでしょう。
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