パンドラの約束  F-5-4



6. 正しい「事実判断」のためには     2014.12.2  (更新 2014.12.24)   

前章までで示してきたように、原発の是非に関する信念対立では肝心要の「事実判断」がなおざりにされがちで、それには「循環論法」「事実<<価値判断」が影響しています。
 そこで、本章ではなおざりな「事実判断」がどのような事態を引き起こすのか? 「循環論法」「事実<<価値判断」は実際にどのような形で影響するのか? より正しい「事実判断」を行なうためにはどうすればよいのか? について検討してみたいと思います。

 

6-1 「事実判断」がなおざりにされていると

自分の「事実判断」に基づいた信念を一生懸命アピールし、それに沿った社会が実現したものの実際にはその「事実判断」が正しくなかったとすればどうなるか? 多くの人々を最悪な事態に陥れることになります。

例えば、仮に反原発派の「温暖化は原発なしで解決可」との「事実判断」は間違いで(「温暖化は原発なしに解決不可」が正しく)、その「事実判断」に基づいて原発がすべて廃絶されたとします。この場合には、放射能被害はないかも知れませんが、地球温暖化による深刻な被害が発生することになります。 注)
(反対に、5人の転向者が間違っていれば地球温暖化被害は発生せず、放射能被害が深刻となるでしょう)

間違った「事実判断」によって自分が苦しむだけであれば自業自得なのですが、この場合には、自分の子孫を含む人類全体が何代にもわたって苦しめられることにもなります。 

 良かれと思っての行為が、結果的には重大な加害行為にもなってしまうのです。とても恐ろしいことです。「事実判断」にはそこまでの厳しさがあるのです。
 ここでは「動機は純粋だった」とか、「理念としては正しかった」とかは意味がありません。「事実判断」が正しいか否かだけが問題となります。正しかったなら社会にとって益が、間違っていたなら害がもたらされるだけです。とても実利的なことなのです。


もちろん、“価値判断”が支配的な信念(“死刑制度の是非”等)であれば「事実判断」を気にする必要は全くありませんし、社会的に影響を与えない信念(“職場・家庭内での対立”等)であれば関係者だけの問題で済むでしょう。

しかし、「事実判断」が要であって社会的に大きな影響を及ぼす信念においては、「事実判断」をなおざりにすることは決して許されないのです。より正しい「事実判断」を追い求めることが極めて重要な「社会的責務」となっているのです。

 

6-2 「循環論法」「事実<<価値判断」の影響

前二章4. 5.で示したように、理論派の人が陥りやすい「循環論法」は「事実判断」を自分の信念に整合させてしまい、一方、感性派の人が陥りやすい「事実<<価値判断」は“価値判断”のみで信念を形成してしまいます。ここでは分かりやすいように、理論派は「循環論法」、感性派は「事実<<価値判断」として説明しました。

 

 しかしながら実際には、一個人のなかに両方の要素があって、一つの「事実判断」に対して両要素が影響すると考えるべきでしょう。つまり、人や判断すべき内容によって程度の差はあるものの、その人の論理面には「循環論法」のバイアスが、感性面には「事実<<価値判断」のバイアスがかかる、とするのが正確なのでしょう。今後はこの形で検討を進めます

 

 さて、原発是非問題での「事実判断」は高度・複雑でとても難しいものです。そのため、謙虚・誠実に考えてみれば、自分の「事実判断」には何のバイアスもかかっていない、と言い切れる人は少ないと思います。

 そうすると、ほとんどの人が論理面で「循環論法」、感性面で「事実<<価値判断」のバイアスを受けており、その結果、もしかしたら間違った「事実判断」をしてしまっているかも知れないことになります。

 これは充分に自覚しておくべきことでしょう。

 

なお、正しい「事実判断」を阻害するものには感情的な言動や戦術としての作為などもありますが、本論考ではこれらは適切に排除されているとして検討を進めます。

 

6-3 事実に限定した対立相手との真摯な議論

「循環論法」「事実<<価値判断」のバイアスを受けずに、より正しい「事実判断」を行なうために最も有効な方法は、間違いなく事実に限定した対立相手との真摯な議論』となると思います。


1)ポイントその一 :『事実に限定した』
 事実に関する議論には次のような特性があります。
   @論理性さえ堅持されていれば誰とでも議論が成立し、有意義に進展する。
   Aほとんどの証拠・根拠は検証可能なので、これらを共有することが出来る。
   B明確な証拠・根拠と徹底した論理による結論は、誰もが了解せざるを得ない。 

 “価値判断”にはあり得ないこれらの特性が、『対立相手との真摯な議論』を担保します。


2)ポイントその二 :『対立相手』
 第一に、もともと「循環論法」「事実<<価値判断」は大変自覚しにくいものです。しかし、異なる信念を持つ『対立相手』からはそれが鮮やかに見えています。しかも、彼らは積極的に容赦なく批判してくれます。つまり、自分の「循環論法」「事実<<価値判断」を気づかせてくれる最良な人は『対立相手』と言えるでしょう。

 

第二に、同じ信念を持つ仲間は、関連する知識・思考・視点なども同じ傾向の人々となるので、このような人々といくら議論しても如何ともしがたい限界があります。むしろ、集団思考となってドグマ(教条)化する恐れがあります。

『対立相手』はその問題に対して同じように関心を持ちながらも、知識・思考・視点などが自分とは大きく異なっています。このような人との議論では、自分では思いもよらない展開や深みに、そして思いもよらない結論になり得ます。『対立相手』との議論は大変意義あるものとなることでしょう。


議論できる『対立相手』が存在することは実に幸運なのです。


3)ポイントその三 :『真摯さ』
 上記のように『対立相手』のおかげで「循環論法」「事実<<価値判断」の気づきと有意義な議論が可能になりますが、それを確かに実現するためには『真摯さ』(まじめでひたむき)、正しい「事実判断」に対する『真摯さ』が不可欠です。

ここで間違えてはいけないのは、『真摯さ』は正しい「事実判断」に対してであって、決して自説に対してではないことです。現状では多くの人が自説の主張には必死になっていますが、「事実判断」に対する『真摯さ』はあまり感じられません。


その『真摯さ』はどこから生み出されるのでしょうか? 極めて重要な「社会的責務」を自覚して「なんとしてでも正しい「事実判断」を見出さねば!」との思いから生み出されるはずです。原発是非問題では、「万が一でも自分の孫・ひ孫を苦しめてしまうことがないように!」との思いから『真摯さ』が生み出されるはずです。



以上のポイントから考えて、『真摯な議論』はつぎのような形になるはずでしょう。まずは、徹頭徹尾、事実のみを追求することを肝に銘じます。つぎに、自分の信念・判断・価値観を保留します。(「**である」「**のはず」「***であるべき」を一旦捨てます) そして、相手をよきパートナーとして粛々と議論を進めます。具体的には、相手の主張の正しいと思われる部分はそれをしっかりと認めた上で、相手の間違っていると思われる部分を論理的・客観的に指摘します。また、自分に対する相手の批判を謙虚に受け入れて、それを自説の改善につなげます。
 このような共同作業を積み重ねることによって、より正しい「事実判断」が次第に浮かび上がってくるはずです。

ただ、実地においてはスタイルやテクニックなど気にかける必要はありません。本当の『真摯さ』さえ持っていれば(「万が一でも自分の孫・ひ孫を苦しめてしまうことがないように!」との強い思いさえあれば)、試行錯誤しながらも、自分に合ったもっと良いスタイル・テクニックで議論を進めることが出来るはずです。

 

以上のように、より正しい「事実判断」のためには『事実に限定した対立相手との真摯な議論』がとても有効な方法であると言えるでしょう。

 

なお、『真摯な議論』を尽くしてもいくつかの「事実判断」では両派の溝を埋めることが出来ないでしょう。その原因のひとつは「前提・枠組みの違い」です。前提・枠組みが違えば「事実判断」が対立するのは当然ですが、相手の「事実判断」を否定するのに必死で、前提・枠組みの違いにさえ気づかないことが多いようです。しかし、『真摯な議論』によれば、このような状況自体は理解できるようになり、今後の解決につながっていきます。
 原因のもうひとつは「情報不足」(判断するために必要な情報の絶対量が不足)ですが、これもほぼ同様な状況となるでしょう。

 さらに、『真摯な議論』を充分に行なっても相手を説得できない「事実判断」には、何らかの不確実性があることを認めざるを得なくなるはずです。そして、このような難問に対しては、その不確実性も見込んだ対処(フレキシブル性を持たせる、状況を確認しながら段階的に進めるなど)が検討されることになるでしょう。

  このように『真摯な議論』は対立全体に対するメリットが大きくなっています。




注)国際社会が温暖化政策の根拠としているIPCC報告書によると、将来的には次のリスクが予測されています。
「海面上昇、沿岸での高潮被害など」「大都市部への洪水による被害」「極端な気象現象によるインフラ等の機能停止」「熱波による、特に都市部の脆弱な層における死亡や疾病」「気温上昇、干ばつ等による食料安全保障が脅かされる」「水資源不足と農業生産減少による農村部の生計及び所得損失」「沿岸海域における生計に重要な海洋生態系の損失」「陸域及び内水生態系がもたらすサービスの損失」 

これらにより、少なくとも億単位の人命が脅かされることになるでしょう。

なお、正のフィードバックにより温暖化が「暴走」するとの指摘も一部にあって、元東北大学総長で日本を代表する工学者の西澤潤一は、「人類は80年で滅亡する」などの著作で「暴走」により人類は近いうちに滅亡する可能性が高いと警告しています。




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補足  地球温暖化による甚大な被害は本当?

現在、多くの人が「地球温暖化の対策を行なわなければ甚大な被害が発生する」と信じています。実際に、今回の5人の転向者だけでなく多くの反原発派もこの地球温暖化甚大被害説を前提としています。

しかしながら、この説は研究者内で必ずしもコンセンサスが得られておらず、その基本となる地球温暖化人為説においても肯定派と懐疑派との信念対立が続いています。今は肯定派が多数となっていますが、最近16年間、CO2排出量増加にも関わらず地球平均温度は上がっていないことから懐疑派の声も強くなりつつあります。

もし地球温暖化人為説やそれに基づいた地球温暖化甚大被害説が間違っていたなら、気候関連だけでなく原発是非問題も大きな影響を受けます。化石エネルギーをどんどん使ってよいことになれば、5人の転向者をはじめ甚大被害説を原発推進の主な理由にしている少なからずの人々は足元をすくわれたことになり「な〜んだ」と言って反原発派に転向する(5人は再転向)しかありません。反原発派も無理して再生エネルギーに期待する必要もありません。

ちなみに、自分の守備範囲で正しい「事実判断」にいくら努力しても、関連分野での間違った「事実判断」のとばっちりを受けることになります。自分の間違った「事実判断」が他分野にまで影響してしまうこともあるでしょう。「社会的責務」はより重いことになります。

 


7.  山道で迷ったら      2014.12.2   

「夕闇迫る山中、互いに見知らぬ二人が別れ道でどちらに行くべきか迷っている」状況での譬えで、前三章(4. 5. 6.)の補足説明をします。

 

(『対立相手との真摯な議論』)

<ケース 1>
「一人は左、もう一人は右に行こうとしています。そこで、二人はどちらが正しいのかと議論をはじめました。すると、互いに見落としていた情報や弱かった根拠を補完し合っていくことが出来て、しだいに答えが明らかとなって無事に下山できました。」

 特に、この二人がそれぞれ小学生を引き連れた教師だとしたら、最高度の『真摯な議論』になったでしょう。原発の是非に関する信念対立でもこのようにしてもらいたものです。

 

<ケース 2>
「一人は左、もう一人は右に行こうとしています。しかし、互いに「自分は正しいはず」「否定されるのは嫌」「面倒くさい」とそのまま進み、一方は遭難してしまいました。」

 子供を引率した教師なら、二人とも批判を免れることは出来ないでしょう。原発是非問題では将来の被害は深刻となりそうなので、現世代はその責任を厳しく追及されることになると思います。

 

<ケース 3>
「二人とも左に行こうとしています。聞いてみたら根拠も同じだったので安心して一緒に進み、両人とも遭難してしまいました。」

 同じ意見を持つ仲間は、往々にして正しい判断の妨げとなり、地獄への道連れになります。

 

(自分の信念、「循環論法」「事実<<価値判断」)

<ケース 4>
「もともと、二人は迷った時の別れ道の選択として異なる信念を持っていました。一人は、山頂に登れば必ず下山道が見つかるので「上り道」に行くべき、もう一人は、沢に下りれば最終的に下山できるので「下り道」に行くべき、との信念でした。
今回、二人とも分かれ道で具体的な事実を詳しく調査しましたが、どちらとも取れるものばかりで、結局はそれぞれ自分の従来の信念に沿うように判断していました。」

 これが「事実判断」を自分の信念に整合させてしまう「循環論法」です。自分では客観的に判断したと思っているところが困ったものです。

 

<ケース 5>
「もともと、二人は迷った時の・・・・・・との信念でした。(ケース4と同じ)
二人とも分かれ道で具体的な事実をろくに調査せずに、それぞれ自分の従来の信念を今回にもそのまま適用していました。」

 これが “価値判断”のみで信念を形成してしまう「事実<<価値判断」です。
 「上り道」との信念は「時間・手間がかかっても確実な方法で」との“価値判断”が、また「下り道」との信念は「手っ取り早い方法で」との“価値判断”が根拠となっているのでしょう。しかし、“価値判断”とそれに基づいた信念の妥当性は、その時の状況(事実関係)に強く依存します。麓近くまで来ているのに山頂まで登るのも、また急な渓谷なのに沢に下りるのも妥当ではありません。

 

(正しい「事実判断」)

<ケース 6>
「もともと、二人は迷った時の・・・・・・との信念でした。(ケース4と同じ)
二人は自分たちの信念について議論を戦わせていましたが、日が暮れるばかりでこの場には何の意味がないことが分かってきました。そこで、互いに見落としていた情報や弱かった根拠を補完し合うような議論に切り替えた所、この場に必要な答えが明らかとなってきました」

“不毛な信念対立”ではなく、より正しい「事実判断」のための議論こそが重要です。




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