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パンドラの約束 F-5-3
4. 「事実判断」を信念に整合 -循環論法- 2014.8.31
原発是非問題(原発の是非に関する信念の形成・対立)では「事実判断」が要(かなめ)となっています。(前章3.) しかしながら、実際には、その「事実判断」は正しく行なわれているのでしょうか?
4-1 容易ではない「事実判断」
原発是非問題での「事実判断」のポイントは、5人の転向者が辿ったとおりに「原発は大変危険、温暖化は原発なしで解決可」と「温暖化は原発なしに解決不可、温暖化は原発よりもずっと深刻」のいずれが正しいか? となります。
これには「原発による被害」「温暖化による被害」「再生エネルギーの能力」などの個別の「事実判断」が重要になります。ここで不可欠なのは定量性(数量・程度)です。定量的な検討でなければ「事実判断」が出来ないのは当然です。
そして、この三つを明らかにしようとすると、それぞれにさらに細かい「事実判断」を定量的に行なう必要があり、そのためにはさらに・・・ 、と判断すべき項目は拡大していきます。しかも、それらには多種多様な専門的な内容が関係しており、各分野で専門家の意見も一致しているわけでありません。 注-1)
これでは、原発是非問題の「事実判断」を独力で行なうのは能力・知識の点で不可能なこと、つまり「力不足」であることは明らかでしょう。
基本的には、これは一般市民でも専門家でも同じことです。専門家であっても自分の狭い専門以外の分野については素人なのです。
4-2 信念に整合させた「事実判断」
独力での「事実判断」は困難であるにも関わらず、ある現実的な方法で自分の「事実判断」を確保している人がいます。(理屈っぽい理論派の人です)
その方法とは、他人の「事実判断」を取捨選択して借用することです。
(なお、理屈の苦手な感性の人は、取捨選択もせずに“価値判断”のみで信念形成しています。これについては次章5.で検討します)
不特定多数の他人が自分の「事実判断」としているものは、信頼に足るものだけに限っても実に様々で、真逆になっていることもよくあります。この理由としては、採用しているデータや考え方、あるいは想定している条件や枠組みの違いが大きいのでしょう。
したがって、借用とは言っても、これらの違いを自分自身で公正・客観的に検討した上で取捨選択するのなら、それは適正な自分の「事実判断」としてもよいでしょう。(この方法は実践的な知識習得の定石)
しかしながら、強い信念を持っている人では、往々にしてこの取捨選択が自分の信念を基準にして行なわれます。つまり、自分の信念に反するものはろくろく検討もせずに否定し、自分の信念に整合するものだけを無条件に採用します。
当然これは不適切であって、単に自分の信念に整合させた(自分に都合のよい)「事実判断」でしかありません。
婚約者の譬えでは、ローン期間などの条件が異なれば不動産専門家のコメントは違ったものとなりますが、その条件は無視して自分に都合のよいコメントだけを拾っているようなもの。あるいは、相手から「ローンは家賃の半分(2倍)のはず」との指摘を受けても、それを調べもせずに否定し、自説を固持するようなものです。実におかしなことです。
自分の「事実判断」を自分の信念に整合させてしまうのには、「力不足」以外にもいくつかの理由があります。
第一はヒューリスティック(暗黙のうちに用いている簡便な解法や法則)。面倒な論争に手間ヒマかけたくないので、手っ取り早い方法で決めてしまいます。
第二は確証バイアス。自分の信念は正しいはずとの強い確証があると、そのバイアスが判断に影響してしまいます。
第三は使命感。「この信念をなんとしてでも実現せねば!」との圧力が判断に加わります。
第四はアイデンティティ喪失への危惧。すでに自分のアイデンティティとなっている信念を損なうものなど到底受け入れられません。
これらから考えれば、自分の信念に整合するように「事実判断」を行なってしまうのも、ある面仕方のないことと言わざるを得ません。 注-2)
そのため、故意に事実を捻じ曲げるような不届き者は別として、本人もそれに問題があるとは自覚していないでしょう。
4-3 循環論法の信念形成
仕方のないことで問題意識はないとしても、「事実判断」を自分の信念に整合させてしまうことは信念の形成・対立の点では大きな問題です。これでは、信念形成が循環論法となってしまうからです。図3にイメージを示します。
「事実判断」を自分の信念に整合させている例としては、キリスト教右派の創造論者が典型的となります。
すべての生物は神によって今ある姿のまま創造されたとの信念を持っている創造論者は、どんなに強力な進化論の証拠をどれだけ示されてもそれらすべてを頭から否定します。そして、創造論に都合のよい証拠(しかも科学的根拠の薄いわずかな証拠)だけを事実であると判断します。そして、その「事実判断」が創造論の根拠となります。
このように自己完結形の循環論法に陥った信念では、とうてい意味ある対話・議論は期待できませんし、まさに根無し草のようにどんな信念にも流れていってしまいます。
このような状況では“不毛な信念対立”に陥ってしまうのは避けられません。
注-1) たとえば、温暖化の問題は 1)今後のCO2 排出量、2)それによる温度上昇、3)その温度での被害、に分けられますが、1)ではエネルギー消費量、新規化石燃料、資源可採埋蔵量、再生可能エネルギー、国際協調、2)では地球物理学、気候学、3)では農業、公衆衛生、災害、紛争などの専門的な内容となっています。
このうちの再生可能エネルギーひとつ取っても、原理の異なるさまざまな方式が研究されていますが、安定性や送電、あるいは環境破壊の問題もあって原発代替となり得るかは不透明です。
また、5人の転向者が希望を見出した新型原発は、事故を起こした旧型の原発とは設計思想・構造が全く異なるので定性的にはより安全となっているのは間違いないでしょうが、現状ではこれを定量的に判断するのは不可能です。
注-2) このような状況にも関わらず、5人の転向者は「事実判断」の重要性をよく理解し、あえて現在の自分の信念には整合しない「事実判断」を選択したことになります。彼らの「事実判断」の真偽は別として、彼らの態度は立派と言うべきでしょう。
5. “価値判断”だけの信念 -事実 << 価値判断-
理論派は他人の「事実判断」から取捨選択して自分の「事実判断」としますが、感性派はそんな取捨選択すら諦めて自分の“価値判断”だけで信念を形成します。 一体、どういうことなのでしょうか?
5-1 「事実判断」の軽視
例えば、反原発派の人々は、
A-1:電気よりも命!
A-2:危険な原発は廃止すべし、
A-3:子孫には原発のない地球をプレゼントすべき、
などの彼らの“価値判断”をさかんにアピールし、これらを行動原理にしています。
ここで、とても不思議に感じることがあります。“価値判断”には必ずなんらかの「事実判断」が前提となっているはずなのですが、その「事実判断」がよく見えてこないのです。
本来であれば、彼らのA-1、A-2 、A-3の“価値判断”には、それぞれ、
B-1:電気がなくても命は大丈夫、
B-2:原発は最も危険な発電方式、
B-3:温暖化は原発なしで解決が可能、
などの「事実判断」が前提となっているはずです。
しかし、B-1、B-2、B-3は決して自明ではありません。もし、これらが間違っていれば、A-1、A-2 、A-3の“価値判断”の優先度は相当低くなってしまいます。
しかも、実際に原発推進派からは、
C-1:停電は交通・医療などで犠牲者を生み、節電も間接的に人命を脅かす、
C-2:発電方式別では原発による死亡者が最も少ない、 注-1)
C-3:原発なしでは温暖化による凄まじい被害を招く、
などの反論が示されています。
しかしながら、反原発派の人々でも、C-1、C-2、C-3を自分の言葉で客観的・論理的に否定できない人がほとんどでしょう。また、自分のアピールの前提となるB-1、B-2、B-3についてすら真剣に検討していない人が多いでしょう。
これも「事実判断」をなおざりにしていることになります。そして、なおざりされた「事実判断」を前提とした“価値判断”は優先度も定まらないあいまいなものにしかならず、信念の形成・対立の点では大きな問題となります。
ここでは、なおざりな「事実判断」を前提としたあいまいな“価値判断”が強くアピールされ、そのあいまいな“価値判断”で固い信念が形成されていることになります。「なおざり」「あいまい」なのにも関わらず「強く」「固い」となるところに、この不思議さがよく示されています。
婚約者の譬えでは、住宅費(ローン支払い・賃料)がオーバしたら生活費や教育費に支障が出てしまうのに、実際に住宅費がどの程度となるかをまじめに考えようとせずに、自分の「〜べき」だけを強く主張していることになります。本当に不思議です。
このように、本来の「事実判断」が主、”価値判断”は従との構図とは真逆、すなわち、「事実判断 << 価値判断」 (<<
: 非常に小)となっている場合が少なからず見受けられます。 注-2)
5-2 “思い”で“価値判断” が勢いづく
このような不思議なことがどうして起ってしまうのでしょうか?
「事実判断」を信念に整合させてしまう理由(上記4-2)とも重なりますが、ここでは“価値判断”を勢いづかせる点で、人の“思い”(気持ち、心情、感情 )が主たる理由となります。
一見、曖昧で柔らかい“思い”は、「正しいと信じ堅固に守る自分の考え」である信念とは無関係のようにも思えますが、実は信念形成・対立の場面では“思い”はキーとなる要素です。
人の“思い”は様々ですが、ここで典型的なものは「使命感」。
「この信念をなんとしてでも実現すべき!」との崇高な“思い”なので、それが架空の(意味のない)補強材・活性剤にもなって“価値判断”を勢いづかせることになります。
「愛情」。
「我が子を傷つけるものは絶対に許さない!」との“思い”は親として当然でしょう。その“思い”の前には客観も論理もへったくれもありません。確かに、学問でも評論でもない、ほかでもない我が子の命のことなのですから、これも当然なのかも知れません。
そのため、いったん思い込んだ“価値判断” は限りなく勢いづいてしまいます。その陰で「事実判断」は捨て置かれます。
「憎しみ」(対立相手への憎悪・嫌悪・敵愾心)。 注-3)
燃えさかるネガティブな“思い”によって“価値判断” が無闇に勢いづくだけで、自説の点検・見直しなどは眼中にあり得ません。
このように、“思い”によって「事実判断」はなおざりにされ、あいまいな“価値判断” が意味なく勢いづけられます。そして、その “価値判断”のみで信念が形成されることになります。
図4にイメージを示しました。
これらの“思い”は、信念の形成・対立場面での影響力はとても大きいのですが、個人の心に根ざしているものなので客観的でも論理的でもありませんし、他人の意見を聞く耳を持たない頑なさが際立ってしまいます。
このような状態では“不毛な信念対立”に陥ってしまうのは避けられません。
ここで特に悲劇的なことは、「使命感」や「愛情」などの“思い”が、結果的にはその“思い”とは全く逆の事態を起こしやすいことです。つまり、その“思い”とは裏腹の罪作りな行為になりやすいことです。
最後にもう一人の転向者の話しです。
自らを「にわか(反)原発ヤロー」と称した山本太郎氏は、反原発派になったきっかけについて次のように語っています。
「『原発に賛成? 反対? アンケートとってみよう』との孫正義のツイッターに『原発反対』とつぶやいたが、抑えていたものがあふれたのか、涙が止まらなくなり、1人で嗚咽していた。それで、俺は原発反対を訴えていこうと決めた」
パウロの回心にも似た感動的な転向ですが、信仰は「事実判断」無関係の“価値判断”そのものです。それとは全く異なり原発是非問題では「事実判断」が要となっているにも関わらず、このような強い“思い”に突き動かされた転向。
これには大きな違和感を覚えざるを得ませんし、転向後の活動でも「事実判断」の欠如による迷走が大変気になっています。
注-1) 「『反原発』の不都合な真実」 (新潮新書457) 2012年 によると、単位発電量あたりの原発の死亡者は火力の1/700、ソーラの1/5(P28)。火力による世界の死者数は、炭鉱事故で年間数千〜万人単位(P19)、大気汚染で年間30万人(P24)となっています。
前2章の注-2)でのハンセンらの書簡では、米国での大気汚染による死者を年間数万人としています。
注-2) 次のような言葉は 「事実判断 << 価値判断」 に陥っていると思います。
「原発をやめることは人間のいかなる価値を超えて一番大事な倫理」 (大江健三郎)
「原発建設は人命軽視の姿勢、原爆犠牲者に対する最悪の裏切り」 (〃)
「たかが電気のために命を危険に晒してはいけない」 (坂本龍一)
「僕らは代替案なんてなくても“原発反対!”って言ってればいいんだ」 (〃)
「原発推進をしようとする人は心の病気」 (香山リカ)
「今日ここ(反原発集会)に来ているのが、国民であり市民」 (落合恵子)
注-3) 「憎しみ」では対立相手へのネガティブな関心故に、「事実判断」だけでなく肝心の案件(対立している事案)もそっちのけで「憎いから対立する」という特異な現象が発生する場合があります。
例えば、原発推進派のなかには、「原発のことは良くわからないが、反原発派が嫌いだから原発推進に賛成している」との人(反・反原発)がいます。
また、本来、政治思想と原発の是非に直接的な関係はなく、実際に世界各国の政治思想と原発設置数には相関はありませんが、日本ではわずかな例を除いて左寄りは反原発、右寄りは原発推進にきれいに分かれています。これには、左翼嫌い/右翼嫌いによる「憎いから対立」の影響もあると思われます。
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