パンドラの約束  F-5-2



2. なぜ転向したのか? 2014.7.31   (更新 2014.10.22)

2-1 「事実判断」の変化が転向の理由

 前章1.で見たように原発の是非に関する信念対立は代表的な“不毛な信念対立”となっていますが、これはどうしてなのでしょうか?

 これを明らかにするため、最初に、対立の支配的な要因は何かを検討し(本章2.・次章3.)、つぎに、その要因が“不毛な信念対立”にどのように関係しているかを検討します(次々章4.以降)

 
 まず、対立の支配的な要因について検討を進めます。

 一般には信念形成の要素である“価値判断”(「〜すべき」)の相違は対立の大きな要因になると考えられており、実際に反原発と原発推進の両派では“価値判断”の相違はとても大きくなっています。そのため、これが対立の支配的な要因のように思えますが、本当でしょうか?

 
 このヒントとなるのが、両者を隔てている塀を乗り越えた人々、つまり‘パンドラの約束’に登場する5人の転向者です。彼らの転向の状況が分かれば対立の支配的な要因も明らかになるはずです。本章2.では彼らの転向について詳しく検討します。 注-1)

 

 あの5人はなぜ転向したのでしょうか? 彼らの長時間インタビューでは転向に関して詳細に述べられています。
 そこでは自分の基本的な『価値観』が変わったとの話しは出てきません。例えば、経済発展の重要性にはじめて気がついたわけでもなく、人生観・倫理観を改めたわけでもないようです。
 5人が異口同音に繰り返し述べているのは、信念形成のもうひとつの要素である「事実判断」(「〜である」)を変更せざるを得なくなって苦悩の末に信念を変えた、ということです。

 

 「事実判断」に関する彼らの説明は概ねつぎのようでした。

【転向前】

 「原発の安全性や廃棄物がとても大きな問題であって、これはどんな方式でも解決できないと判断していたため、原発問題については全く悲観的でした。」

 「一方、再生エネルギーを拡大し、節電を押し進めばCO2の削減は充分に可能であると判断していたため、地球温暖化については楽観的でした。」

 「以上の『原発は大変危険であり、温暖化は原発なしで解決可能』との「事実判断」から、原発は撤廃すべきとの信念を持っていました。」

 

【転向後】

 「広い視野で慎重に検討を進めるにしたがい、
  ・発展途上国の生活水準向上には現在の3倍のエネルギーが必要となる、
  ・国際社会でのCO2削減の取組みには期待できない、
  ・再生エネルギーには超えがたい限界がある、
  ・温暖化による被害は凄まじいものとなる、
 と判断するようになったため、地球温暖化については悲観的にならざるを得なくなりました。」

 「一方、開発中の新型原発では安全性や廃棄物の問題が大幅に改善され得ると判断したため、原発についてはやや楽観的となりました。」

 「以上の『温暖化は原発なしに解決不可、温暖化は原発よりもずっと深刻』との「事実判断」から、苦渋の選択だったのですが、転向して原発を推進すべきとの信念を持つに至りました。」  注-2)

 

これらを整理すると、表2となります。


彼らは、自分の「事実判断」について再検討を行なった結果、以前とは大きく異なる「事実判断」を持つようになって新しい信念にたどり着いたのです。彼らの「転向」(信念の変更)の理由は、彼ら自身の「事実判断」の変化でした。

 

 実際、もしも(真偽は別として)『温暖化は原発なしに解決不可、温暖化は原発よりもずっと深刻』であると’はっきり’と(明確に、確信を持って)「事実判断」したにも関わらず、原発推進に賛成しない人(たとえば、「将来の子孫は本当にかわいそうで申し訳ないが、自分は原発のない世界で過ごしたいのだ!」と言う人)など本当に居るのでしょうか? 
 この点では、そのように’はっきり’と「事実判断」した彼らが転向したこと自体は、極めて自然なことと言えるでしょう。 

 

2-2 “価値判断”は「事実判断」に連動

さて、彼らの転向過程において“価値判断”はどのようになっていたのでしょうか?
 何も変わらなかったのでしょうか? それとも、転向に合うように無理やり捻じ曲げられたのでしょうか?

 

インタビューによると、彼らの“価値判断”は概ね次のように変化したと推測されます。

【転向前】

「やっかいな放射性廃棄物を新たに生み出す原発自体が倫理に反する、と判断していました。」・・・@ 

「電気を浪費するのは許されないこと、電気の節約は我々の義務であると判断していました。」・・・A


【転向後】

「子孫に甚大な被害をもたらす地球温暖化に真剣に対処しないことは倫理に反する、と判断するようになりました。」・・・@

「発展途上国の人々にも生活水準向上に必須の電気を享受する権利は守られるべき、と判断するようになりました。」・・・A

 

そして、これらの“価値判断”の変化は、上記の「事実判断」の変化によって引き起こされたとしています。

 

これらの“価値判断”の変化のまとめを、「事実判断」の変化(表2)と一緒に示すと表3のようになります。




 もともと“価値判断”は必ず何らかの「事実判断」を前提として成立しており、なんの「事実判断」も前提とせずに“価値判断”だけが存在することはあり得ません。 注-3)
 実際、表3の“価値判断”
(上段)は、その前提となっている「事実判断」(下段)を前提にして成立しています。


 したがって、ある「事実判断」が変化すれば、それを前提としている“価値判断”が変化するのは当然なことになります。実際、表3下段のように彼らの「事実判断」が変化したので、彼らの“価値判断” @・Aもそれに応じて変更されたのです。
 “価値判断”は「事実判断」に連動して自動的に変化したと言ってよいでしょう。

 ただし、変化したと言っても、転向前の“価値判断”が完全に覆されたり無意味になったりしたのではなく、新たな「事実判断」のもとでは変更後の“価値判断”をより優先させるべきとなった、つまり重み付けが変わっただけとなっています。

 (一般的には、「事実判断」の変化によって“価値判断”が覆されたり無意味になる場合もあるものの、最終的で確定的な信念とは違ってその材料としての“価値判断”はファジーで重層的なものなので、優先度・重み付けの変化に留まる場合が多くなります)

 

以上のことから、
 1)彼らの「事実判断」の大きな変化が転向の理由となっている
 2)“価値判断”は「事実判断」に連動して重み付けが変化しており、転向の理由にはなっていない
と結論づけられます。

 

 これらの状況を、「事実判断」と“価値判断”による信念形成モデルにおいて示すと図1となります。

 

注-1) 彼らが信念対立の塀を乗り越えたからといって、その新しい信念が正しいとは限りません。彼らの信念の正否はここでは問わないことにします。

注-2) 2013年11月、地球温暖化を最初に提唱したジェームス・ハンセンなど気候変動を専門とする著名な科学者4名が、「深刻化する温暖化による危険を回避するためには、原発の利用が不可欠だ」とする書簡を発表しました。彼らは、福島原発事故によって原発撤廃の世論が高まっていることに危機を抱いたようです。

注-3)具体的な“価値判断”はその人固有の『価値観』に基づいていますが、この『価値観』は理念なので必ずしも事実を前提としません。



3. 「事実判断」が信念形成の要 & 対立の支配要因  2014.7.31   (更新 2014.10.22)


3-1 「事実判断」が信念対立の支配的な要因

 前章2.では、映画の5人の転向理由は彼らの「事実判断」の変化であり、「事実判断」に連動して重み付けが変化しただけの“価値判断”は転向理由にはならなかったことが示されました。


 彼らは、転向前は積極的な反原発活動を長年続けており、反原発派の指導的な論者にもなっていました。また、転向後も中身は原発推進ですが、同じように積極的な活動を続けています。
 彼らは決して無思慮・軽率でも唯我独尊・自己中心でもなく、その真逆と言うべき人々です。また、原発や再生エネルギー・温暖化の利害関係者でもないので、転向による個人的なメリットはありません。


 このようなことから、彼らの転向はなんら特殊でエキセントリックなものではなく、原発の是非に関する信念対立の本質的な構造を反映していると考えるべきでしょう。 注-1)

 
 そうすると、彼らの転向理由から推測するに、世界中で巻き起こっている反原発vs原発推進の対立の支配的な要因は両派の「事実判断」の相違である、となります。また、両派の“価値判断”にも相違があるものの、それは「事実判断」に依存する重み付けの違いに過ぎず対立の要因としては小さい、となります。

 

 前々章1.の表1によると、反原発派は、「再生エネルギーに限界あり」「温暖化の被害は凄まじい」などの「事実判断」が出来ないと批判されていますが、もしも(真偽は別にして)この批判が的を射ていたとします。すなわち、この「事実判断」が適切であり、反原発派はその「事実判断」を拒否しているとします。そうすると、適切な「事実判断」を拒否する反原発派の主張が適切なものであるとは、とうてい言えなくなります。
 当然ながら、同じことは原発推進派の方でも言えます。

 このように「事実判断」の適切/不適切はそのまま主張・信念の適切/不適切に直結します。これはつまり、対立の支配的な要因は「事実判断」の相違であることを示しています。

 また、それぞれの“価値判断”(表1の上段)は自分たちの「事実判断」(表1の下段)が前提となっているのは間違いありません。もし表1の下段だけ左右を入れ替えると上段と整合が取れなくなるのはそのためです。


 実際、『原発は大変危険であり、温暖化は原発なしで解決可能』との「事実判断」からは反原発の信念が形成されることは必然であり、一方、『温暖化は原発なしに解決不可、温暖化は原発よりもずっと深刻』との「事実判断」からは原発推進の信念が形成されることも必然と言ってよいでしょう。


以上のことから、
 
1)原発の是非に関する信念対立の支配的な要因は「事実判断」の相違である、 注-2)
 2)「事実判断」に連動して重み付けが変化する“価値判断”は小さな要因に過ぎない、

と結論づけることが出来るでしょう。

 

 この結論を図示すると図2のようになります。

 


 恐らく原発の是非で対立している人々は、自分たちと相手は“価値判断”が違うからこそ対立していると思っているでしょう。また、自分の“価値判断”(とそのベースとなっている『価値観』)には自信と誇りを持っており、それを理解できない相手を見下している面もあるでしょう。 注-3)  
 しかし、実際には、“価値判断”は「事実判断」に連動して重み付けが変わっているだけなのです。そして、両者の「事実判断」の違いこそが対立の支配的な要因となっているのです。

 このことはとても重要です。主観的で人それぞれとなる“価値判断”に対して議論はあまり意味をなさないのですが、客観的で人によらず共通であるはずの「事実判断」に対して議論は大きな意味を持ち、最終的にはレベルが上がった「事実判断」を相手と共有できる可能性があります。少なくとも相手の「事実判断」の内実(根拠や思考過程)をはっきりと理解することが出来ます。
 これらによって、今までの自分の枠に囚われていた信念を、より適切でより望ましいものに改善することが可能となります。


 また、対立以前の信念形成の段階においても、“価値判断”は「事実判断」に連動するだけであって「事実判断」こそが重要となっています。「事実判断」は信念形成の要(かなめ)であると言えるでしょう。

 そこで、
 3)原発の是非に関する信念形成では、「事実判断」が要(かなめ)である、
との結論を追加することが出来ます。

 

3-2 家は購入か賃貸か(譬え)

 卑近な譬えで、「事実判断」は信念形成の要であり、「事実判断」の相違が原発是非の信念対立の支配的要因であることを理解したいと思います。

 婚約した二人がマイホームの検討をはじめましたが、いきなり意見が対立してしまいました。男は家庭の基盤となる家は自己所有すべきとの“価値判断”から、家は購入しようと主張しています。
 一方、女はライフスタイルに応じて家を変えるべきとの“価値判断”から、家は賃貸にしようと主張しています。いくら話し合っても両者の主張は変わらず、かえって頑なになって信念対立の様相を呈してきました。

  しかしながら、実は、ふたりの「事実判断」、最も重要な毎月のローン支払い額と賃料の見込みは大きく相違していたのです。
 ローン支払いは賃料の何倍か? 男は半分程度と思い込んでいましたが、女は2倍程度と思い込んでいました。しかも、二人とも自分の“価値判断”を理解してもらおうと一生懸命のあまり、「事実判断」の確認はお留守になっていました。

 
 もし、実際には女の「事実判断」(2倍)が真であって、それを男が正しく認識したら男は自分の信念を変更するでしょう。逆のケースで、男の「事実判断」(半分)が真であることを認識した女も信念を変更するでしょう。
 したがって、対立の本当の原因は、“価値判断”の相違ではなく「事実判断」の相違だったのです。

 ちなみに、原発の是非では両派の「事実判断」の相違はとても大きく、とうてい倍・半分のレベルではありません。

 

3-3 本論考の適用

 原発の是非の信念対立では「事実判断」が支配的な要因になっていることが分かりましたが、当然ながらすべての信念対立が同じ状況ではありません。

 映画の5人と対照的な転向者としては、キリスト教発展の基礎を作ったパウロが思い浮かびます。はじめは熱心なユダヤ教徒でキリスト教徒迫害の先頭に立っていましたが、天からのイエスの言葉を聞いて転向(回心)して熱烈なキリスト教徒になっています。

 現代では死刑制度廃止論の代表的論者である団藤重光。最高裁判所判事在任中には死刑制度に賛成でしたが、ある事件で死刑判決を言い渡して退室しようとした時に背後から浴びせられた「人殺し!」との声がどうしても心に引っかかり、ここから死刑制度に疑念が生じて最終的に廃止論に転向することになりました。


 この二人はいずれも、なにか客観的な事実に対する判断を変えたわけではなく、ひとつの言葉が彼らの心を刺激して信念が変わっていったのです。つまり「事実判断」ではなく、“価値判断”が変えられて転向したのです。

 確かに、彼らの信念がかかわる信仰論争(ユダヤ教vsキリスト教)や死刑制度の是非(死刑存続vs廃止)においては、もともと「事実判断」の要因は皆無で、“価値判断”の要因がすべてとなっています。

 

 このような視点で、様々な信念対立をカテゴリー分けすると以下のようになるでしょう。

 “価値判断”のみが要因となっている信念対立は、上記の信仰論争・死刑制度是非だけでなく中絶の是非・同姓婚の是非などが代表となります。注-4) 
 一方、「事実判断」のみが要因となっている信念対立は、理学系の学術論争、地球温暖化人為説の認否が代表となります。
 注-5)

 そして、上記の両カテゴリーの間に、本来は“価値判断”と「事実判断」のいずれの関与も小さくない信念対立が存在します。ただし今まで論じてきたように、“価値判断”は「事実判断」に連動して重み付けが変化するだけですので、これらの信念対立では「事実判断」が支配的な要因となっているものが多くなっています。

 このような信念対立は原発の是非が典型となりますが、その他、組織的・個人的、あるいは論争レベルの高・低を問わず、毎日どこかで繰り広げられているごく一般的な信念対立の多くがこれに該当すると思われます。このような信念対立には誰もが幾度となく遭遇しているでしょう。

  そうすると、原発の是非を対象とした本論考(私の雑感 E(原発)) は、もっと身近な数多くの信念対立に適用できるはず と結論づけることが出来ます。

  信念対立に遭遇すると「世の中にはいろんな考え方の人がいるから・・・(相手とは“価値判断”が違うのでどうしようもない)」と後ろを向いてしまう人が多いのですが、それはもったいないことです。かなりの割合の信念対立が「事実判断」を支配的な要因としており、この場合には上述のように自分の信念をより適切でより望ましいものに改善し得るのです。

 

注-1)彼らの「事実判断」とそれによる信念の変更が正しいか否かは別問題となります。

注-2)本サイトでは原発の是非に関する信念対立は価値観の対立に分類されているので本結論と矛盾すると思われるかも知れませんが、以下のような状況となっています。次章4.と次々章5.で示すように、実際には、この信念対立では「事実判断」が信念に左右されたり、「事実判断」がなおざりにされたりして、“価値判断”が意味なく勢いづけられています。そのため、本来的には事実の対立ではあるものの、実際には価値観の対立となってしまっていると見なしています。

注-3)この傾向は、“価値判断”を重視する反原発派の人々に強いように感じられます。

注-4)“価値判断”が大きいものの「事実判断」も多少関与する信念対立としては、銃器規制・ギャンブル規制・ポルノ規制の是非、靖国/九条/国歌国旗論争などがあります。

注-5) 「事実判断」が大きいものの“価値判断”も多少関与する信念対立としては、工学系の学術論争、地球温暖化の脅威論争などがあります。
    低線量被曝の論争・南京大虐殺の認否・従軍慰安婦の認否・進化論vs創造論も、定義や思考基盤の点で“価値判断”が関与するのでこのカテゴリーに入るでしょう。

 


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