専門家の発言  F-3-2



2 「両者の事実認識による批判」法の提案  2013.12.31  (更新 2014.12.31)

前章1で示したとおり、影浦氏は科学技術系専門家の発言を言論・メディアの視点から批判していますが、「自分だけの事実認識(事実判断)」を前提としているため、そこには事実認識と発言(ことば)の二つのギャップが交じり合ってしまい、折角のユークな批判が建設的な議論になっていません。(本サイトでの言い方では、“健全な信念対立”にはならずに“没議論型 不毛な信念対立”(論考 原発災害シンポ 5)となっています) 

この状況を改善するにはどうすればよいでしょうか? 事実認識に違いがあるのなら、まずはその事実について議論を重ねて決着をつけるべきなのかも知れませんが、それでは面白くありませんし、決着がつく可能性も低いでしょう。
 そうであれば、逆にそれぞれの事実認識や考え方の違いを生かした議論に発展させたいところです。特に、科学技術系専門家と非専門家とでは個々の科学的真偽に関する具体的な議論では意味あるものになりにくいのですが、その他の両者の発言・主張に関しては意義深い議論になるはずです。

このような点で有効と思われる議論の方法を提案したいと思います。それは事実認識と発言・主張の問題を分離する方法です。具体的には、

T 両者の事実認識を明らかにする

U 仮に「相手の事実認識を前提」として相手の発言・主張を批判する

V 自分の事実認識に基づいて相手の発言・主張を批判する 

の三段階で進めます。

この方法を「両者の事実認識による批判」法と呼ぶことにします。


  Tでは、自分の事実認識をよく整理するとともに、批判する相手の事実認識を予断なしに調べます。相手の事実認識の細部までは無理ではあっても、要点となるところはしっかりと押さえます。そして、それらを出来るだけ両者の違いが明確になる形で明示します。ここではあくまで事実認識の違いを確認するだけで、その真偽を問うことはしません。

 Uでは、「自分の事実認識」を一時的に停止、すなわち“留保”し、「相手の事実認識」をもってしてもなお適切とは考えられない相手の発言・主張の問題点を、仮に「相手の事実認識を前提」として指摘します。例えば、(たとえ相手の事実認識が正しいとしても)曖昧で不適切な発言・主張を指摘し、そこから見えてくる問題点を批判します。 

さらに、「相手の事実認識を前提」とした論理を展開していき、そこで弱点や矛盾点が現れてくればそれを指摘します。もしそれが本質的な矛盾であれば、背理法として相手の事実認識の間違いを証明することが出来ます。

この“留保”は現象学でのエポケーと同様で、自分自身の殻から自由になるために必須となります。これにより、「相手の事実認識」を素材にしているものの、それを「自分の考え方」で練った上で、「相手の発言・主張」を指摘することになるので、意義深い批判となるはずです。しかし、もしこの形で指摘できるものが何もなければ、相手の発言・主張に問題点はなかったことになります。
 

 Vでは、先の“留保”を解いて自分の事実認識に基づいて相手の発言・主張の問題点を指摘します。通常は誰もがこれを最初から行なっているのですが、ここではTの両者の事実認識の確認、Uでの「相手の事実認識を前提」とした批判の後に行ないます。例えば、間違った(と自分は考えている)事実認識を誤魔化している発言・主張を批判します。

 

この「両者の事実認識による批判」法の構造を図で整理します。発言・主張は事実認識を素材にし、それをいろいろと考えて形成されるとの構図(図1)を基本にすると、通常は「自分の事実認識」に基づき「自分の考え方」で「相手の発言・主張」を批判すること(図2)になります。




 これに対して提案の方法(図3)では、まずTで自分と相手のそれぞれの事実認識を明らかにします。つぎにUで、「相手の事実認識」をベースにして「自分の考え方」によって「相手の発言・主張」を批判します。最後に、普通行なわれているようにVで「自分の事実認識」をベースにして「自分の考え方」によって「相手の発言・主張」を批判します。



本方法の可能性を、前章1の一ノ瀬批判との対比で整理します。影浦氏は暗黙のうちに「自分だけの事実認識」に基づいて批判しています。つまり、Tを曖昧にしたままで、いきなりVを行なっています。もし、Tで一ノ瀬氏の事実認識を確認した上で、Uでその一ノ瀬氏の事実認識を前提とした批判を行なっていれば、この発言に潜んでいることばの問題点(および一之瀬氏が反論した哲学の問題点)を最初から的確に指摘することが出来たはずです。これなら一ノ瀬氏もしっかりした反論ができて建設的な議論になったと思います。

以上提案された「両者の事実認識による批判」法について、次章以下では適用例やメリットについて考えいきたいと思います。

 

3 「両者の事実認識による批判」の実例  2013.12.31 (更新 2014.12.31)

影浦氏は、科学技術系専門家による問題発言として、東大医学部准教授の中川恵一氏のつぎの例を挙げています。(「信頼の条件」−原発事故をめぐることば− 岩波 科学ライブラリー 207 p22) 

『100mSvを超えると直線的にガン死亡リスクは上昇しますが、100mSv以下で、がんが増えるかどうかは過去のデータからはなんとも言えません。それでも、安全のため、100mSv以下でも、直線的にがんが増えると仮定しているのが今の考え方です。 仮に、現在の福島市のように、毎時1μSvの場所にずっといたとしても、身体に影響が出始める100mSvに達するには11年以上の月日が必要です』

この中川氏の発言に対して、影浦氏は次のように批判しています。

「100mSv以下では「なんとも言えない」だけで、がんが増えないことが確認されたわけではないのですから、安全のために100mSv以下でも気をつけるのは当然です。ですから、ここで用いられるべき自然な接続詞は『それでも』ではなく『ですから』のはずです」と指摘しています。

続けて、「それにもかかわらず『それでも』を使うことで、『なんとも言えません」』という記述が科学の無能さを示していること自体が曖昧になってしまいます。」「それを引き継いで、次の段階では、いつのまにか、『身体に影響が出始める100mSv』と、あたかも100mSv以下では健康被害は存在しないことがわかったかのような表現が使われています」と批判しています。

そして、「『わからないこと』をあたかも存在しないことであるかのように見なす態度は、極めて非科学な態度であると言うことができます」と締めくくっています。

ここでは、まさにTを曖昧にしたままで、いきなりVを行なっています。そのため、中川氏からは何の反論ももらえていません。

 

それでは前2章で提案された「両者の事実認識による批判」法をこの例に適用してみたいと思います。

 T 「両者の事実認識を明らかにする」を適用します。

影浦氏の事実認識は「1〜10mSvでも100mSvと同程度の影響があり得る」になると思われます。注-1) 現在最もコンセンサスの得られている考え方は100mSv以下でもしきい値(被曝影響がゼロになる値)は無く直線的な関係が成り立つとする「しきい値無し直線仮説」なのですが、影浦氏は「しきい値無し」だけでなく「直線」であることも認めていないようです。 

これに対して中川氏は「しきい値有り」と考えており、「1〜10mSvなら直線より少ない影響しかない」との事実認識になると思われます。注-2)
 

 これらを図4に示します。

このように1〜10mSvでの影響に関して影浦氏と中川氏の事実認識は大幅に異なります。この違いを曖昧にしたまま「ことば」だけを批判しても、あまり意味のある展開にはならないのは当然でしょう。

 U 「仮に『相手の事実認識を前提』として相手の発言・主張を批判する」を適用します。

まず確認しておくべきことは、中川氏の事実認識は「直線より少ない」なので、問題とされた中川氏の発言の趣旨は「直線より少ないはずだが、それでも安全のために直線としている」となります。したがって、「それでも」に何の問題もありません。注-3) このため、影浦氏の「それでも」への指摘、およびそれから展開されている批判は、Uでは成立しません。 

むしろここで問題とすべきは、中川氏発言の「なんとも言えません」が大変曖昧な点、また「直線より少ない」を明確に示していない点です。これに対して、例えば「『直線より少ない』とはっきり言うべき。ただし、その根拠を明示するとともに、その推定の信憑性を分かりやすく説明すべき」などと影浦氏は指摘すべきです。

また、「身体に影響が出始める100mSv」が断定的すぎて不適切な表現なので、例えば、「『身体に影響が出始めることが確認されている100mS』とすべき」と指摘すべきです。 注-4)

以上は表現・言い回しだけに関するものですが、枠組みや論理性を含む指摘とそれに続く議論の例を以下に示します。

まず、「毎時1μSvの場所にずっといたとしても、100mSvに達するには11年以上」との中川氏の発言は、たとえ「直線より少ない」を前提としても影浦氏としては聞き捨てならないでしょう。これに対しては、「11年で100mSvの影響、つまり0.5%のがん死となるは大問題」とはっきりと指摘すべきです。

このような指摘であれば、続いて以下のような議論があり得るでしょう。

(中川) 実際の被曝量は次のふたつの理由でもっと少なくなる。「毎時1μSv」はセシウム半減期とウェザリングによって2-3年で半減、その後10年でさらに半減する。「ずっといたとしても」は非現実的で、実際は低線量の屋内滞在が長く1/2〜1/3となる。したがって、累積で100mSvとなるには少なくとも50年はかかる。

(影浦) 子供は放射線感受性が高く、寿命も長いので50年であっても問題。

(この議論の続きは次章4で示します)

このような議論によって細かい事実関係や懸念・疑問点が整理されていきます。

 

 V 「自分の事実認識に基づいて相手の発言・主張を批判する」を適用します。

冒頭に「私の事実認識に基づけば」との文言を入れれば、上記本書での批判(「それでも」でなく「ですから」)は明確になって、批判として成立します。(ただ、「中川氏の事実認識は間違い」からスタートして「中川氏の態度は極めて非科学」との結論になっていますので、トートロジー的で意味がないようにも思えます)

また本来であれば(影浦氏の事実認識が前3章の図4のとおりとして)より重要な批判として、「毎時1μSvの場所に・・・11年以上」に対して「この発言は中川氏の事実認識に基づいており、私の事実認識に基づけば全くの間違い。毎時1μSv以下、それも1年以内の被曝で0.5%のがん死(100mSvの影響)が発生し得る」と影浦氏は指摘すべきでしょう。


このように(T・Uを踏まえた上での)Vは、自分の事実認識と自分の考え方でストレートに批判するので、事実そのものに関する核心的な議論では必須となります。そして、事実そのもの以外関わる議論でも、事実認識を曖昧としたまま行なうよりはずっと良い方法となります。
 しかしながら、基本的には、Vでは両者の事実認識にズレがあるままなので、上記Uで想定される意義ある議論は展開されにくくなっています。特に、自分の事実認識に固守する者同士では絶望的となります。

 

注-1) 本書で議論の対象としている福島県住民の実際の被曝量が1〜10mSvであること、「制限速度を越える車が多い」の譬え、および上記指摘の前半「100mSv以下では・・・当然です」から推測。ただ、明確な記述がないのであくまで憶測というべき。

注-2) 中川氏の著書(「被ばくと発がんの真実」ベスト新書358 p32)での記述「私は100mSvより低い領域のどこかに、白か黒の境目(しきい値)があるではないかと、思います」、および住民被曝量が1〜10mSvであることからの推測。

注-3) 中川氏としては、なんの問題もない発言に対して、なにを指摘されたのかすぐには理解できないでしょう。「影浦氏は『直線より上』との事実認識を持ち、それに基づいて批判しているらしい」と想像力を働かせる必要があります。

注-4) この指摘自身は影浦氏のものと同趣旨ですが、影浦氏はここを「それでも」から展開する批判の重要なポイント(ホップ・ステップ・ジャンプのステップ)としています。しかし、Uにおいて本指摘はステップの意味はなく、単にこの文の表現が至らないだけとなります。

 

 

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