論考
     専門家の発言  F-3-1



1 「制限速度を越える車」と「三輪車」 2013.12.31 (更新 2014.12.31)

東大の文系研究者で言語とメディアを専門とする影浦峡氏は、 「信頼の条件」−原発事故をめぐることば−(岩波 科学ライブラリー 207) において、原発・被曝問題に関わる専門家(主に安全派の科学技術系専門家)の発言に対して批判的な論考を行なっています。その論考は、彼らの発言がいかに社会の信頼を損ねる不適切なものか、そのような発言はどのようにして生み出されたのか、などを追求しています。つまり、表現や言い回しだけでなく、言葉から見えてくる枠組みや論理性などの問題点の解明を目指しており、まさに「ことば」の専門家ならではのものとなっています。 注-1)



なお、本書では発言内容の科学的な真偽については論考されていませんし、著者自らの見解も明確に示されていませんが、それは、「ことば」の問題点は個々の事実に限定されない普遍的なものと考えているからだと思われます。


私は会社で技術職をしていたこともあって、影浦氏の批判は基本的には理解できます。科学者・技術者にとっては事実の追及こそがすべてとなっています。暗闇に隠れ複雑に絡み合っているこまごまとした事実をひとつひとつ明らかにしていき、なんとかして間違いのない結論(大きな事実)にたどり着かなければなりません。常に事実・事実で頭がいっぱいなので、第三者への説明方法や表現などには考えがおよびませんし、考え方の枠組みがずれている場合も木を見て森を見ずに陥っている場合もあります。
 ましてや想定外の大災害の時、科学技術系専門家に不適切な発言が多々あったのは確かでしょう。これらに対して、全く別の視点から批判を行なうことは意味のあることだと思います。

しかしながら、私としては影浦氏の批判にどうしてもしっくりこない面があります。実際、批判を受けた科学技術系専門家から反論をもらって議論が盛り上がるという様子はありません。なぜでしょうか? 本書の中に、この原因を示唆する別の批判例がありました。
 

影浦氏は、哲学を専門とする東大の一ノ瀬正樹氏の被曝被害に関する 『しかし、まだphysicalな被害がほとんど顕在化していないにもかかわらず、なぜ人々はここに不安を抱くのだろうか』 との発言を厳しく批判しています。

影浦氏は「この発言は、通学路に交通量の多い道路ができて、しかも制限速度を越える車が多いときに、保護者が通学する児童の安全を不安に思っている状況で、『しかし、まだphysicalな事故が起きていないにもかかわらず、なぜ人々はここに不安を抱くのだろうか』と問いかける状況に、いささか似ています。」と批判しています。つまり、前半の被害の実状についてはよしとしても、後半の不安を抱くことに対する疑問は許されない、とのことです。そして、その他の批判も含めて「科学技術系の専門家の発言と比べても一層悪質」と辛らつです。(「信頼の条件」 p60)

この通学路の譬えはイメージしやすくインパクトもあるので、多くの読者に強く訴えるでしょう。
 しかしながら、果たして「制限速度を越える車が多い」は事実に即している譬えでしょうか? 関係者のコンセンサスは得られるでしょうか? 影浦氏の「自分だけの事実認識」のようなのですが、これは不適切な決め付けと言われても仕方がないように思えます。

もしも「遊歩道ができて、たまに幼児が三輪車で通る」方が事実に即しているとすれば、これを不安に思う方がおかしいことになります。(数十年間、数十万人の児童が通学すれば、ふざけていて三輪車に気づかず転倒して大事故になる可能性も否定できないでしょうが、誰もこれに不安は感じません)
 現在、このどちらが真実に近いのかは定まっていません。

影浦氏は、さらに、
・不安は本来、むしろ被害が顕在化していないときに抱くもの
・事故がなければ放射能への不安など起きなかった
・危険性のある状況が現実に存在してしまっているという問題を隠蔽
 と批判していますが、これらはすべて被曝による健康被害が深刻である(「制限速度を越える車が多い」)ことを前提としたものです。もし「三輪車」の方が真実であれば、いずれの批判もほとんど意味のないものとなってしまいます。 

この批判に対して、一ノ瀬氏は二三の哲学的な反論の後に、「現状の被曝線量の実態に鑑みるならば、「当然の不安」ではなく、「必要のない不安」である可能性もかなりある」としています。(「放射能問題に立ち向かう哲学」筑摩選書0059、P265)

したがって、この論争にはことばや哲学などの問題が絡んでいるものの、実際には被曝被害の事実認識に大きなギャップがあるのです。

 

これと同じように、影浦氏の安全派科学技術系専門家に対する批判は、必ずしも適切とは言えない(関係者のコンセンサスが得られていない)事実認識に基づいているものが多いように思えます。注-2)

つまり、影浦氏は「自分だけの事実認識」を前提とするので、批判相手との間には事実認識とことばの二つのギャップが交じり合ってしまうのですが、それにも関わらず個々の事実に限定されない普遍的な問題を論考する形になっています。これでは誰にとってもしっくりこないことになるでしょう。

特に、事実こそすべての科学技術系専門家にとっては、このように事実を曖昧にしたまま批判されても、反論や改善を行なうどころか批判の趣旨を理解することすら難しいかも知れません。


 論考 原発災害シンポの11にて「“危険陣営”の事実軽視」を指摘しましたが、影浦氏にも同じ問題があって、折角のユニークな批判が建設的な議論(“健全な信念対立”)として生かされる可能性を自ら排除してしまっています。残念なことです。

 

注-1) 本書に対する書評が公開されています。  http://www.rinri.or.jp/research_support_Shohyo1304.html

注-2) 影浦氏は、「基本的には、海の魚を食べても問題ない」との科学技術系専門家の発言に対して、原発沖で捕れたコウナゴから4080ベクレル/kgの放射性ヨウ素が検出された一例をもって「事実に照らして誤っていたのです」との裁断を下しています。(p3 ) しかし、本例は非出荷品で極めて稀な最高値であること、規制値は2000ベクレル/kgで半減期が8日などのことから、この裁断は不適切な決め付けと言われても仕方がないと思います。

また、「チェルノブイリのようになってしまうと思っている人も多い」との発言に対して、「国際原子力事象評価尺度でのレベル7と、チェルノブイリと同じ深刻な事故だったわけです」としています。(p7 ) しかし、福島の放射線核種の放出量はヨウ素131で1/10、セシウム137で1/5、ストロンチウム89・90で1/50以下ですし、生物学的半減期が約70日の放射線セシウムの内部被曝量は1年後の福島の方が5-10年後のチェルノブイリよりもかなり低くなっています。(片瀬久美子 Warblerの日記 2012.6.30 http://d.hatena.ne.jp/warbler/20120630/) この裁断も適切とは言えないでしょう。  (なお、これらの情報は本書執筆前にすでに明らかとなっています)

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