原発災害シンポ    F-2-4


8 全般的な解決策    議論なしの解決 1/2    2013.8.14 (更新 2015.1.11)

前章5〜7で、「なぜ、意見の対立している学者は直接議論しないのか?」の理由について説明しました。それでは、議論なし状態(“没議論型 不毛な信念対立”)を解決することは可能なのでしょうか? そのためにはどのような方法があるでしょうか?  

結論としては、議論なし状態を解決するには大きな困難があるでしょう。一当事者の“心がけ” ひとつで一挙に解決されるようなものでは決してありません。完全な解決には、両当事者だけでなく社会全体の抜本的な意識の改革や知的な成長が必須となります。この意識改革・知的成長は、基本的には、ものごとを決める手段が暴力から話し合いに進化したのに匹敵するステップとなり、大変な時間がかかるでしょう。

 しかし、基本的にはこの通りだとしても、そんな悠長なことを言っているわけにはいきません。たとえ“心がけ”レベルだとしても、なんとかして解決への手がかりを見つけてみたいと思います。

本章では全般的な解決策について提案します。

第一の方法は、議論の「実利」についてしっかりと認識することでしょう。(「実利」の説明は前章5)  被曝被害では「3. 答え不明」の理由で「実利」が半減してしまうのは致し方ないのですが、それでも「実利」の認識には意味があると思います。


第二の方法は、「議論を避けることは不道徳」との認識でしょう。譬えれば、登山パーティが道に迷った時、山の怖さを知っているはずのリーダは、たまたま出会った他パーティとそれぞれの情報を持ち寄り真剣に話し合って正しい下山道を見つけようとするべきでしょう。しかし、もし自己過信でそれをしなければ、これは同行者を遭難に巻き込んでしまう愚行であり、不道徳な行為と言うできでしょう。

同様に、学者であるからには科学・医学の世界の奥深さ(被曝被害の難しさ)、およびそれに比して人間の知恵の浅はかさを十分に理解しているはずです。しかし、異説・異論を唱える対立相手との貴重な議論を自分の都合だけで避けるのは、福島県民や被曝被災者を二次被害に巻き込んでしまう不道徳な行為です。

特に、本人としては崇高で道徳的な思いにかられて活動していても、それが全く逆の不道徳的な行為になってしまう恐ろしさ、重大さを充分に認識していただきたいと思います。


第三の方法は、対立相手と「お仲間」になることでしょう。それも、同じ目的に向かって苦労をともにした仲間となることです。幸いにも主流学会・脅威派・慎重派いずれもが全く同じ目的、すなわち「県民・被災者を救いたい、力になりたい」との直接的で具体的な目的を共有しています。その強い思いも同じです。したがって、「お仲間」になるのはその気になれば簡単なことでしょう。

この方法は頭ではなく体・心によるものなので、うまくいけば大変よい結果が得られると思います。一つの実例を本論考の最終章で示します。


以上が全般的な解決策ですが、個別理由については次章で説明します。

 

9 各理由の無効化    議論なしの解決 2/2    2013.8.14  (更新 2015.1.11)

「なぜ、意見の対立している学者は直接議論しないのか?」に対して5点の理由が示されましたので、解決にむけてそれぞれの理由を無効化する方法を提案します。

1. 自己過信

本理由のさらに原因となる a. b. c. は、主に脅威派に当てはまるものです。脅威派の方には、創造論原理主義者の状況を調べ、自分も同じ轍を踏んでいないかどうか自己点検していただきたいと思います。また、創造論原理主義者は、(特に日本では)世論の支持を得ることは出来ずに社会から浮いた存在になっています。「危険性を訴えても、変な人!と一蹴される」(吉田さん、前章3)こともある脅威派は、この点も充分に認識する必要があると思います。

 d.は主に主流学会に当てはまるものです。ジュディス・カリーの反省を見習って自己点検していただきたいと思います。

 

2. 相手否定

本理由に対しては第一に、「相手の主張にまともに批判できなくなった時に、相手の属性・人格への誹謗が行なわれる」との原則を思い起こしてもらいたいと思います。

 第二に、世論への宣伝もあって、相手への誹謗は実際の(隠しているが本音の)評価よりもかなりおおげさになっており、本人もこれを分かってやっています。そこで、「実利」が期待できる相手か否かの判断を、宣伝用ではなく実際の評価で行なえば、結構な割合で合格者が出るのではないでしょうか? 

第三に、ジュディス・カリーは集団思考の反省から懐疑派と向かい合って「おや、ここには私が接触したいと思う人たちがいる」と驚いています。特に主流学会の方は、騙されたと思って一歩踏み出していただきたいと思います。

 

3. 答え不明

本理由は案件の特徴に起因するものなので、当事者側からこれを無効化することは原理的に不可能となります。つまり、「答えが不明なので『実利』は期待できない」はどうしても崩せないので、これで議論を誘うことは出来ません。

 それでは、これを逆手にとって「答え不明」そのものを議論へ誘うポイントにしましょう。つまり、「『答え不明』故に議論で負けが確定することは絶対にない。ならば、防衛本能も世論影響も気にせずに自分の主張を一方的に述べてくればよい。これは自分たちのよい宣伝になる」と言う理屈です。これでは意義ある議論はあまり期待できませんが、とにかく議論の場に出て来てもらうためには意味があるでしょう。

米国では、進化論学者と創造論原理主義者の公開討論がさかんに行なわれていましたが、これは創造論原理主義者側の本提案と同じ作戦だったようです。議論の中身では劣勢であっても一対一で討論する形になっているので、世論としては進化論と創造論が同格のような印象を持ってしまい、それなら学校では両方を教えるべきだろう、となるからです。(ただ、この作戦は進化論学者に気づかれて、討論は断られるようになりましたが・・・)

 

4. 防衛本能

本理由の無効化には信念構造の変更が有望でしょう。従来の考えでは、信念とは意見が強く固まったものとしています。そうなると、信念は意見や意見を生み出す事実などから構築されていることになります。これに対して、新しい信念構造では、信念と意見は全く別ものであり、意見は事実を変数とする関数の値とします。つまり、1、x2、x3)の形で示せば「意見事実)」となり、変数 1、x2、x3である事実が変われば関数の値 である意見も変わります。そして、不動である関数信念とします。関数 は、その人の基本的な考え方・人格・価値観によって構築されており、いろいろな事実に応じてその人なりの意見を生み出すものです。改めて考えると、このようなものこそ信念と言うべきものであり、その人のアイデンティティにもなるべきものと思います。

例えば、新しい信念構造では、「なによりも子供の命」との信念は、その趣旨を含有した関数となります。変数として、ある地域での被曝線量の予測その線量による被害の予測避難による被害の予測などの事実を当てはめると、その関数の値として避難すべきか否かの意見が出てきます。(恐らく、別の信念、例えば「なによりも経済復旧」では、同じ変数でも異なる意見になるでしょう) 
 そして、もし遮蔽効果が予想以上に大きかったなどで被曝線量の予測(事実)が変更されたら、それに応じて意見は変わり得ます。したがって、対立相手との議論などで他の事実に触れることによって、「なによりも子供の命」との自分の信念を堅持したままで、避難すべきか否かの意見をより正しいものに修正することが出来ます。これでこそ、自分の信念をより生かすことが出来ます。

これに対して従来の信念構造では、「『なによりも子供の命』なのだから『避難する』」を信念にしてしまっているので、「避難する」に反するような情報を端からブロックすることになり、正しい判断を逃してしまうことになります。

 

なお、喪失を恐れるもう一つの社会的認知や既得権に対しては、それに固執しない軽やかな心を持っていただくしかありません。

  

5. 世論影響

本理由が顕在化するのは劇場対決型の公開議論の場合です。それなら、インターネットでの会議室スタイルにするのが良いでしょう。

ネットではいくつものメリットがあります。例えば、時間や場所に制限されない。口頭ではなく文章による議論なので、スマートな切り返しや的確な反論もやりやすくなる。記録が残る。公開/非公開、実名/ハンドルネーム、あるいは規模・レベル・専門分類などが柔軟に設定できる、などです。
  議論に前向きな姿勢と最低限のマナーさえあれば、実現は可能だと思います。

 

 以上の「なぜ、意見の対立している学者は直接議論しないのか?」、すなわち”没議論型 不毛な信念対立”の改善策をまとめると図9のようになります。

図9



最後に、主流学会vs脅威派、および主流学会vs慎重派において、実際に真摯な議論が実現するか否か、その可能性について簡単に示します。

主流学会vs脅威派では、状況によほど大きな変化がなければ絶望的です。たとえ今回の提案のすべてを理解していただいたとしても、なかなか難しいと感じています。進化論学者vs創造論原理主義者の場合と同じです。

これに対して主流学会vs慎重派では現状のままでも可能性はあると思いますし、今回の提案を理解していただければ可能性はより高まると思います。その根拠としては、まず、双方とも相手否定は強くはありません。また、主流学会は、慎重派相手の場合には防衛本能・世論影響があまり強くなりませんし、慎重派ではもともと自己過信・防衛本能・世論影響は弱くなっています。さらに、最も重要なことですが、両者の事実認識は大差なく、それに関わる重要点でも違いはデータ注目点とロジック展開のみとなっています。

地球温暖化では、ジュディス・カリーが、基本的には従来からの人為説を支持し続けながらも、懐疑派との議論を積極的に行なっています。これと同じような形で、主流学会vs慎重派で、全面的には無理としてもローカルには真摯な議論が実現する可能性は充分にあると思います。


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