原発災害シンポ    F-2-3



5 「自己過信」    議論なしの理由 1/3    2013.8.14  (更新 2015.1.11)

(イントロ)

シンポジウムでは「なぜ、意見の対立している学者は直接議論しないのか?」との疑問が示されていました。(前章2)  確かに、被曝許容量の論争では、“安全陣営”である主流学会と“危険陣営”である脅威派・慎重派との直接的な議論はほとんどありません。 

私としても「議論が基本のはずのアカデニズムでなぜ?」との疑問があります。真実追究が自らの存在意義となっているアカデニズムでは、本来、議論が大変重視されています。それは、一個人の知識・能力には如何ともしがたい限界があるので、多くの異なる意見との真摯な議論を重ねてこそ、より真実に近い結論が導き出される、との共通認識があるためでしょう。

この姿が典型的に現れているのは、事実に関する案件(答えのある問題。事実問題)であって、その真実(答え)を純粋に追求している理学系の学術論争です。ここでは、「反論大歓迎。異説があれば喜んで議論しに行く」が普通のスタンスになっています。
 事実問題では、真実探求との言わば崇高な目的だけでなく、自分の間違いを正してくれるとの言わば利己的な「実利」もあるからです。具体的には、自分の結論
(自説)がはずれて不利益を被る、自分の努力が無駄に帰す、恥をかき評価も下がる、などを回避してくれる貴重な「実利」です。

被曝被害はれっきとした事実問題であるにも関わらず、なぜ対立している学者は議論をしないのでしょうか? (シンポジウム後、パネラーの物理学研究者に以上のような話しをしたら、やはり、「ホントにその通りなのに、どうしてなのかね・・・」とおっしゃっていました)

 

実は、信念対立しているのに直接の議論がないという状況は他のいろいろな信念対立でもよく見られるものであり、これは“不毛な信念対立”の代表的なパターンのひとつとなっています。つまり、議論が行なわれればよりよい形に発展し得るのに、それがなされていないという点で、まさに“不毛”なわけです。そのため、この問題は言わば “没議論型 不毛な信念対立” として本サイトでの重要テーマともなります。

そこで、「なぜ」の理由についてじっくりと考えてみました。その結果、主な理由としては

1. 自己過信、 2. 相手否定、 3. 答え不明、 4. 防衛本能、 5. 世論影響

などが考えられました。これらについて、以下本5章・6章・7章にて、必要に応じて「地球温暖化人為説」「進化論vs創造論」の例も示しながら詳しく説明していきます。

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1. 自己過信

理由1は「自己過信」。その心は「私は真実を知っている! なので、議論による真実探究も『実利』も必要ない」です。

まずは、主に脅威派の自己過信についてです。

自己過信に陥ってしまう第一の原因は「a. 批判的思考(クリティカルシンキング)不足」でしょう。不足している批判的思考は自説に対するものであって、主流学会に対する強い批判的態度がなぜか自説には向かってこないのです。そこには論理性だけでなく、それ以上に情報の不足が深刻であるように思えます。自分の考えに合わない情報をブロックしていれば、自己過信に陥るのは当然でしょう。

  第二の原因は「b. 嵌ってしまう」でしょう。事が重大であればあるほどそれに関心が集中してしまうのは自然なことですが、もし「嵌ってしまう」レベルまで行ってしまえば、異説を理解しようにも理解できなくなってしまい、自分の世界以外は見えない状態になってしまいます。

第三の原因は「c. 事実よりも主張」でしょう。本来はまず事実があってそれに基づいて主張が導かれるはずなのですが、実際は「この脅威からいかに生き延びるか」との主張が強く出てしまって、もっとも大切な事実の確認がなおざりにされている面があるようです。
 このような場合には、自己過信を抑えるべき事実が弱いので自己過信が亢進しやすいですし、また根拠となる事実が弱いので強い主張のためには自己過信が要求されてしまうことにもなります。

全体的には『脅威ありき』に陥っていると言えます。そして、恐らくは、当の脅威派もこれらの原因に気づいてはいるものの、それらによる自己過信を“勇気”などと称して肯定的に捉えてしまっているように思えます。


脅威派と類似している創造論原理主義者の場合ではどうでしょうか? 脅威派の状況は現在進行形であって流動的な部分もありますが、創造論原理主義者はすでにはっきりと固まっているのでよい参考となります。創造論原理主義者は、信仰の書であって決して科学の書ではない聖書に拠って生命科学を論じていますので、これは明らかに「a. 批判的思考不足」となっています。つぎに、彼らは聖書に矛盾するものは絶対に認めない立場ですので、すでに「b. 嵌ってしまう」そのものになっています。また、彼らは生命科学自体には関心もなく必要な知識もないのですが、「聖書は真理」との主張にこそ命をかけているので、まさに「c. 事実よりも主張」となっています。全体的には、科学に対しても『聖書ありき』に陥っています。そして、当の原理主義者もこれらの原因に気づいているものの、それらによる自己過信を“信仰の強さ”と誇りにしています。これらの状況は脅威派と全くの同型になっています。
 (なお、私の個人的な気持ちから言えば、創造論原理主義者は尊敬に値する人々です。固い信仰を持って正しく誠実に生きようとし、また世の乱れを正そうと努力を惜しまない人々です。しかし、それが故に、科学を科学として考えることが出来ずに自己過信に陥っていることが残念でたまりません。この点に関しても脅威派の人々と共通する面があります。)

 

つぎは、主に安全陣営の主流学会の自己過信についてです。

真実に対して謙虚であることを旨としている学会では、基本的には自己過信は少ないと言えるでしょう。しかし、「d. 集団思考」を原因とする自己過信の可能性はあります。「集団思考」とは集団で合議を行なう場合に陥りやすい現象であって、自集団に対する過大評価(自己過信)や閉ざされた意識、均一性への圧力などの兆候が現れると言われています。

地球温暖化人為説の対立でも真摯な議論はほとんど行なわれていませんが、米国の気候関連主流学会に属する有力な女性研究者であるジュディス・カリーは、「私自身が『集団思考』に陥っていたことに気づいた」と告白しています。そして「懐疑派の発言の10%、あるいは1%だけでも正しいなら、十分に傾聴に値する。というのも、私たち気候科学者はあまりに集団順応思考に陥っているからだ」としています。(日経サイエンス2011年2月号) 日本でも気象学会の元理事長が学会員に対して「不完全性の認識が必要」と警鐘を鳴らしています。(環境新聞2008年4月23.30日) このような「集団思考」による自己過信が被曝被害に関する主流学会でも発生している可能性は充分にあるでしょう。


これらに対して、真摯な議論が積極的に行なわれている理学系学術論争では、どんなに自信を持っている自説であっても実験などでいつでも容赦なくひっくり返えされる可能性があるため、硬直した自己過信に陥ることは少なくなっています。


6 「相手否定」「答え不明」    議論なしの理由 2/3    2013.8.14  (更新 2015.1.11)

本章前半では議論しない理由2として「相手否定」、後半では理由3として「答え不明」について説明します。

2. 相手否定

理由2は「相手否定」。その心は「たとえ真理探究や『実利』の必要があったとしても、この相手ではその効果が期待できない」です。 (「実利」とは前5章で示した自分の間違いを正してくれるメリット)

安全陣営の主流学会vs脅威派では、対立相手の主張を批判するだけでなく、相手(組織&個人)そのものへの誹謗がさかんに行なわれています。互いに相手をトンデモ扱いにし、主流学会を「御用学者」「原子力ムラ」「うそ集団」、脅威派を「放射脳」「新左翼の残党」「デマッター」などと蔑んでいます。あり得ないような陰謀論が出てくることもあります。このような形で、相手の学術レベルや属性・(個人の場合は)人格までも全否定しています。

このような状態であれば、たとえ当事者が議論による真実探求や「実利」の必要性を強く感じていても、その効果をこの相手に期待できるとは思わないでしょう。また、気持ち的にも「話したくもない、会いたくもない」となるでしょう。このようにして、相手否定が議論を遠ざけています。


進化論vs創造論でも似たような状況で、進化論主流学会を無神論・反キリスト教、創造論原理主義者を偏向・頑迷などと非難しています。


これらに対して理学系学術論争では、「実利」が期待できるから相手否定にも陥りませんし、実際に相手否定が少ないため「実利」も得られています。

 

3. 答え不明

理由3は「答え不明」。その心は「たとえ真理探究や『実利』の必要があったとしても、答えが不明のままなのでその効果が確認できない(意味がない)」です。

被曝被害は事実問題(答えのある問題)であるにも関わらず、答えが不明のままとなりやすい特徴があります。答えが不明のままであれば、真実探究も「実利」も意味がなくなります。

答えが不明のままとなりやすいのは、健康被害は顕在化するまで時間がかかる上、他の疾患に紛れてしまうからです。大多数の人が了解せざるを得ないような確定的な証拠が揃うには相当な時間がかかります。恐らく今後10年内では無理で、数十年以上はかかるでしょう。

また、ほぼ確定的な証拠が揃っても、安全である(被害が無い)ことを証明するには原理的な困難さがあります。悪魔の証明となるからです。脅威派が「科学ですべてが解明されていないので安全とは言い切れない」とあくまで危険を主張すれば、それを直接否定することは不可能です。

 
創造論原理主義者の主張である「だれも進化を見た者はいない」を否定することが不可能なのと同じです。

さらには、事実認定に価値観が絡みます。例えば、主流学会が「統計的に有意なものが事実。(→これだけに集中して対処しないと、他の明白な諸被害を見逃してしまう)」とし、脅威派が「統計的には現れなくても、被害があるのは確か。(→これに対処しないのは、人間として許されない)」としても、これらに答えはありません。 


 これらに対して理学系学術論争では、検証困難となるケースは少なく、むしろ実験などによって誰もが異議を挟むことの出来ない証拠が得られることがほとんどです。また、価値観が関与することもほとんどありません。

 

以上、前章と本章にて、

 なぜ議論しないのか?の理由として、1. 自己過信、2. 相手否定、3. 答え不明 を説明しましたが、この三つは本来であれば議論を誘うはずの真実探究や「実利」が被曝許容量の論争では成立しないという“消極的な理由”となっています。

次章では、議論を阻止・回避しようとする“積極的な理由”となっている 4. 防衛本能、5. 世論影響 について説明します。

 

7 「防衛本能」「世論影響」    議論なしの理由 3/3    2013.8.14 (更新 2015.1.11)

本章の前半では議論しない理由4として「防衛本能」、後半では理由5として「世論影響」について説明します。

4. 防衛本能

理由4は「防衛本能」。その心は「何があっても自分は変わるわけにはいかない」です。 

信念はいくつかの事実(正確には、自分の事実認識)と論理をベースにして構築されているので、もしそれらの事実や論理に修正があれば、それに応じて信念も修正されるのが本来の形でしょう。しかし、一般に、ひとたび自分の信念がしっかりと確立されてしまうと、自分の信念に固執してしまいそれが修正されることを極度に嫌うようになります。強い信念であればあるほどこの拒否感は強烈になり、場合によっては無意識的・生理的なものにもなります。まさに防衛本能と言うべきものですが、それは信念が自分のアイデンティティの一部となっており、そのアイデンティティの喪失を強く恐れるからです。

このような状況になると、自分の信念に合わない事実や論理に遭遇した場合、たいした根拠もなくそれを拒否するようになります。まさに本末転倒なのですが、事実や論理の方を自分の信念に合わせるわけです。また、そのような危険にさらされる行為、つまり対立相手との議論などを避けるようになります。被曝許容量の論争では、脅威派でこの傾向が強く出ているようです。

なお、防衛本能と重なるものなのですが、学問的信念に限らずもっと卑近な事態も含む「認知的不協和理論」で示される現象があります。これは、ストレス低減のために自分の立場・行動での矛盾点(不協和)を解消するように自分の考え方(認知)を修正させてしまうものです。 遠方に自主避難している人々のなかには避難が不必要であることを示すデータを端からデタラメと決めつける人もいるようですが、すでに払ってしまった犠牲と避難不必要とのデータは不協和となるのでそれを解消するには後者を無視するしかないのです。このような人にとっては、対立相手との議論などはそうしても避けなればなりません。

創造論原理主義者ではこのような防衛本能が強く現れています。自分が信奉する聖書に矛盾しないデータのみを受け入れて、質・量ともに圧倒的な進化論支持のデータは無視しています。


また、上記は個人の心理的な防衛本能でしたが社会的なものもあります。自分(組織&個人)のことが社会的な注目を浴び批判にもさらされていると、社会的な認知や既得権を守ろうとする防衛本能が現れてきます。この傾向は主流学会で強くなっているでしょう。


これらに対して理学系学術論争では、いつひっくり返えされるか分からないものをアイデンティティにするような危険行為は避けているため、自説を変えることにほとんど抵抗がありません。また、社会的な認知や既得権もほとんど無関係となっています。


5. 世論影響

理由5は「世論影響」。その心は「世論に影響してしまうと困る」です。 

一般に、世論はいろいろなことに影響されやすく、一旦出来上がった世論は社会に対して強い力を持つようになります。そこで、対立している当事者は、いかにして世論を自分の味方につけるかに大変苦慮しています。被曝許容量の論争でも同様です。

例えば、主流学会は複雑・深遠な科学に対する責任を持っているので、大衆受けする断定的な批判をスマートに切り返すことは苦手です。脅威派・慎重派はデータ・理論の面では弱めなので、学術的に高度な批判に対して的確に反論することには苦労します。両者とも、これらの姿を世論形成者に見せたくはありません。また、全否定しているはずの対立相手と真摯な議論をすることは、つじつまが合わないことになってしまいます。このような世論への影響の懸念が、直接的な議論を避けさせています。 

これらに対して理学系学術論争では、学会内での第三者は自分たちと同レベルであって意味なく影響されることはないため、対立相手との健全な議論に集中できます。

 

以上、「なぜ、意見の対立している学者は直接議論しないのか?」の理由について説明しましたが、これらをまとめると図8のようになります。
 なお、これらは“没議論型 不毛な信念対立”の一例になります。

図8


これら以外にも、「単に面倒くさい」「時間がない」「表に出たくない」「組織から許されていない」などの理由もあるでしょうが、本質的なものは上記5点に集約できると思います。

 次章では、これらの解決について考えていきます。

 

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