原発災害シンポ   F-2-2



  被曝許容量の論争  対立状況 1/3    2013.3.29  (更新 2015.1.11)

南相馬村で市民活動を行なっている吉田邦博さんの特別報告では、安全という学者も、危険という学者もいて、住民としては判断できなくて本当に困る。学者同士が十分に議論してほしい!」との切実な要望が示されていました。

確かに、住民としては、避難するかしないかのとてつもなく大きな判断がかかっている訳です。パネリストとして同席していた坪倉さんも司会の島園さんもこれに同意し、「なぜ、意見の対立 している学者は直接議論しないのか?」とさかんに不思議がっていました。

そこで、この「なぜ」について検討していきたいと思いますが、その前に、理解を助けるために本「被曝許容量の論争」での意見・主張の対立」の状況について、以下本2章・3章・4章にて確認しておきます。(「なぜ」については5〜7章)

図4は、「被曝許容量の論争」とこれに関連する「脱原発vs原発依存」での「意見・主張の対立」の状況の概要を示したものです。

図4

図の中段に、福島原発事故以前での被曝許容量の論争の状況が示されています。右側の「安全サイド/学術的・主流」が大多数の学者、主流の学会であり、幅広い学術研究によって数十ミリシーベルト以下であれば健康に支障はないとしています。学者としては小佐古敏荘氏、丹羽太貫氏、学会としては日本保健物理学会や国際的なICRPが代表的となります。

これに批判的なのが左側の「危険サイド/学術的・異端」のごく少数の学者で、学術的なのですが自然環境由来の放射能レベルである1ミリシーベルト以下であっても被害が生じるとし、多数派からは異端扱いされています。ジョン-ゴフマン(米)、欧州のECRRが代表的となります。

いずれも、被曝被害(放射線防護)研究の専門家と言われている人々です。

 

これら被曝許容量のことは学術的なので福島原発事故以前ではあまり知られていなかったのですが、図上段の脱原発vs原発存続、すなわち今後原発をどのようにしていくべきかに関する対立は直接国民生活に関わるため昔からよく知られています。これら「被曝許容量」と「脱原発vs原発存続」の二つの対立には次のような特徴・相互関係があります。

「被曝許容量」は科学の問題であって、基本的には大多数の人々が了解しうる答えのある問題、いわゆる「事実問題」です。事実問題は、主観や価値観、あるいは何らかの意図が入り込まない(入り込んではならない)問題のはずです。

これに対して「脱原発vs原発存続」はエネルギー関連の政治問題であって、事実問題も含みますが人々の考え方や生き方によって左右される「価値観問題」になります。

 

したがって、事実問題である「被曝許容量の論争」が、価値観問題である「脱原発vs原発存続」に影響を与えることは当然で正当なことなのですが、この逆は本来あってはならないことです。

 すなわち、被曝に関する「安全サイド」の意見が「原発存続」を、また「危険サイド」の意見が「脱原発」を主導し後押しすることは自然であって適切なことです。しかし、「原発存続」の目的のために「安全サイド」が、また「脱原発」の目的のために「危険サイド」が過度に強調されるのは不当で許されないことです。
 もし、このために相手意見の歪曲・誹謗中傷、ましてやデータの隠蔽・捏造などが行なわれるとすると、それは犯罪的とも言えることです。実際には大変残念なことに、双方ともに、このようなことが行なわれていると相手を非難していますし、確かにそれは完全には否定しえない状況になっています。

 

 福島原発事故によって、これらの対立状況はさらに複雑化しています。「脱原発vs原発存続」はその規模や活発さは激増したものの、その構図には質的な変化はほとんどなかったと言えます。
 これに対して、「被曝許容量の論争」には質的な変化がありました。図下段に示されているように、以前の学術的な「危険サイド」「安全サイド」はそのままなのですが、「脅威派」「慎重派」「安全派」が新たに出現しています。

この「慎重派」「安全派」は前1章 図2の分類によっています。また、「脅威派」は「慎重派」と同じ“危険陣営”なのですが、「慎重派」が被曝被害の懸念から“安全陣営”を懐疑的に捉えているのに対して、「脅威派」は実際の被曝被害を確信して“安全陣営”を完全否定しています。(「慎重派」と「脅威派」の違いについては次3章を参照してください) 
 また、“安全陣営”の「安全派」は「安全サイド/学術的・主流」の見解を受け入れて、一般には常識的と言われる判断をしています。

 

新たな「脅威派」「慎重派」「安全派」の人々に共通するのは、被曝被害の専門家ではないことです。学者・研究者ではあっても彼らの専門は被曝被害にやや近い医学や物理学から、全く無関係な社会学や宗教学まで様々となっています。彼らの多くは、以前は被曝許容量の論争についてほとんど関心はなかったのが、福島原発事故によって新規に参入してきた(巻き込まれてしまった)“市民”です。

これらの点では、彼らは、「市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映する」ための裁判員と同じような役割を果たしているのかも知れません。自分の仕事・職場や交流関係などからのしがらみや圧力もありません。また、「脱原発vs原発存続」からの悪しき影響も少ないようです。これらの点に関しては大いに期待したいところです。

 

しかしながら、“危険陣営”“安全陣営”間での対話・議論の点では、「脅威派」「慎重派」「安全派」の参画でむしろ後退してしまっているようです。まさに、吉田氏のご不満のとおりで、誠に残念なことです。

 

各派の代表的な人々としては、本シンポジウム出席者では「脅威派」は早川由紀夫氏・安富歩氏、「慎重派」は押川正毅氏・島薗進氏・影浦峡氏、「安全派」は坪倉正治氏でしょう。(最近、早川氏は慎重派に、島薗氏は脅威派に近くなったように思えます。 2012.8.22)  出席者外では、「脅威派」は肥田舜太郎氏・矢ヶ崎克馬氏・小出裕章氏・広瀬隆氏・西尾正道氏・木村知氏・木下黄太氏、「慎重派」は児玉龍彦氏・今中哲二氏・牧野淳一郎氏、「安全派」は中川恵一氏・早野龍五氏・田崎春明氏・中西準子氏・ウェード-アリソン氏(英)などとなるでしょう。 なお、このうち肥田氏・矢ヶ崎氏・小出氏・広瀬氏には脱原発を目的とした過度の強調があるように感じられます。

 

  事実認識に大差なし 対立状況 2/3   2013.3.29  (更新 2015.1.11)

討論Aでのパネリストは「慎重派」を自認する四名でしたが、彼らに対して会場から「被曝被害によって、10年以内に福島市民の平均余命に統計上有意な差が出ると思うか?」との質問がありました。 この回答に私は少々驚き、いろいろ考えさせられました。


      質問に「お〜っと」という感じのパネリスト          IWJによるWEB中継より

回答は、石田氏:「なんとも言えない」、遠藤氏:「私には分からない」、後藤氏:「分からないと言うべき」、鬼頭氏:「短くはなるだろうが、いろんな要素に隠れてしまう可能性あり」(写真右から)でした。

鬼頭氏の回答は「安全派」の見解とほとんど同じです。たとえば「安全派」が拠っている「安全サイド/学術的・主流」の日本保健物理学会は「100 mSv以下では、がんによる死亡が放射線によるものなのか、生活習慣などの他の要因によるものなのか明確な区別がつかない」としています。

また、当局(政府・自治体・大学)は「なんとも言えない」「分からない」とは責任上言いませんが、不確実性についてもそれなりに言及しています。たとえば県民健康管理センターは「さまざまな学説がある」「科学的には結論が出ていない100mSv以下の慢性被ばくにおいても防護の観点からリスクがあると仮定」「発ガンは確率的な影響」としています。
 また、「安全というなら検査なんかしなくてもよいだろう!」との皮肉的批判に対して、当局は「じゃ、そうしましょう」とは言わずに、大がかりな体制を組んで健康調査をしようとしています。同じように心配しているのです。

結局、このような最も基本的とも言える事実認識に関しては、「慎重派」と当局などの「安全派」で大差はないようです。
このことは大変重要なことです。これらの関係を図5に示します。
 
(「慎重派」と「安全派」については前1章図2のスライドに従います。また、ここでは登壇者4人が「慎重派」の代表的とします) 

 図5

では、「慎重派」と「安全派」は同じ事実認識を持ちながら、なぜ意見・主張(たとえば「当局は**すべきだ」)が異なるのでしょうか? 
 当然ながら事実認識が同じだからと言っても、それから展開される意見・主張が必ずしも同じになるとは限りません。鬼頭氏も先の回答に引き続いて「平均余命のような枠組みで考えること自体が間違いである」とおっしゃっていました。つまり、思考方法や価値観などの考え方が違うからです。

具体的には、「慎重派」は、予防原則、確定していないリスク、気持ちとしての安心、倫理・正義、個人の健康などを重視し、一方「安全派」は、バランスのとれた施策、確定しているリスク、結果としての安全、実効・効率、公衆衛生などを重視しているようです。

しかしながら、これら両者の考え方は誰もが否定し得ない正当なもの、しかも意味深いものばかりであって、単純に二者選択されるものではありません。本来は、これらを多面的かつ総合的に練り上げていくことこそが重要です。それによって主張はよりレベルの高いものになり、適切な結論が見えてくることになります。
 このための最も有効な方法が、「対立相手との真摯な対話」であり「建設的な議論」です。

 

果たして、今それが実現しているでしょうか? 残念ながら、「真摯」「建設的」どころではなく、対話・議論自体がまともに行なわれていない状態です。互いに遠くから非難し合っている状態です。これは福島県人にも、日本国民全体にも不幸なことです。

 

さて、「慎重派」と「安全派」がほぼ同じ事実認識を持っているとすると、同じ“危険陣営”でありながら「慎重派」とは異なって被曝被害を確信している人々、すなわち平均余命は間違いなく短縮するとの事実認識を持っている人々がいます。ここでは彼らを「脅威派」とします。

「脅威派」は「安全派」を厳しく批判し激しい言動にも出ますが、そのような事実認識であるなら彼らの行動も理解することができます。また、乱暴とも言える主張も、彼らにとっては大変な事態が差し迫っている時に人それぞれの考え方の尊重もない訳であって、当然なこととも言えるでしょう。彼らにとって敵(当局)は決して対話・議論すべき相手ではありません。糾弾すべき対象でしかありません。

しかし、「脅威派」であろう特別報告の吉田氏は「危険性を訴えても、変な人!と一蹴される」とばやいていました。彼らは地元住民からあまり支持されていないようです。

 

ちょっとわき道に入りますが、ここで少し不思議に感じることがあります。「慎重派」は、異なる事実認識を持つ「脅威派」と同じように見えてしまうことが多いのです。
シンポジウムでも安全サイドの専門家を「犯罪的」「どこぞの大先生」と誹謗・揶揄する発言、当局への感情的な不信、「当局は安全と決めつけている」との決めつけなどがみられました。肝心の主張も、不確実性を強調していろいろと理屈を述べますが、結果的には「脅威派」のレベルを超えていないと思います。支持も広がらず、当局への影響力も行使できていないようです。

もしかしたら「慎重派」は、情報の少ない時期に持っていた「脅威派」と同じ事実認識のイメージを引きずっているのではないでしょうか? つまり、坪倉医師などのデータによって彼らの客観的な事実認識は少しずつ安全側にシフトされてきたのに関わらず、かつての危険イメージが払拭されずに彼らの心中深くに残っているのではないかと思います。先の質問を受けた時、「お〜っと」という感じでなかなか回答が出なかったことも、そのような印象を与えました。
(この危険イメージの残留は、11章で後述する「”危険陣営”の事実軽視」に通じます。)

 

 ぜひとも、「慎重派」には事実認識をしっかりと点検し修正した上で、折角の独自の考え方をベースとして「脅威派」レベルを超えた、しかも「安全派」では思い至らないような意義ある主張を展開していただきたいと思います。同じ事実認識を持つ人々からの質の高い主張であれば、「安全派」も無視し続けることは出来ないはずです。
 ここまで来てはじめて、福島県人・日本国民全体に貢献できることになるのでないかと思います。

 

 温暖化人為説・進化論vs創造論との共通性    対立状況 3/3   2013.5.30 (更新 2015.1.11)

被曝許容量の論争の対立状況がどのような特徴を持っているのか整理してみました。 (分かりやすくするため、“危険陣営”の被曝被害専門家は日本にはいないとして「危険サイド/学術的・異端」を省略し、“安全陣営”では「安全派」と「安全サイド/学術的・主流」は同じ考えなのでこれらをまとめて「主流学会」としました。)

第一の特徴は、全般的にみると「弱小批判者vs主流学会」との構図になっていることです。
“安全陣営”を支えている主流の学会はいくつもあって質・量ともに強大となっていますが、“危険陣営”の力量はかなり弱小です。
(個々人の力量はともかく、陣営全体の力量は弱小と言えるでしょう) このような「弱小批判者vs主流学会」では本来なら勝負にならないのですが、現在は世の中の脱原発の追い風を受けて“危険陣営”が存在感を示しています。

 第二の特徴は、通常の学術論争では対立相手の主張を真剣に聞き、真摯な議論を重ねてより正しいと思われる結論を捜し求めていくものなのですが、ここでは双方ともに「相手を全否定」し、まともな議論すら行なわれていないことです。

第三の特徴は、案件は事実問題、つまり答えのある問題ではあるものの、その答えが明らかとなるまでにかなりの時間がかかることです。実験結果など誰もが了解せざるを得ない証拠が提示できれば答え(少なくとも共通了解)を得ることは可能なのですが、本案件ではそうはいきません。むしろ、議論の時間軸から見れば「答えは不明のまま」と考えるべきでしょう。

このような対立状況は図6のようにイメージできるでしょう。 

図6

このような特徴を持った信念対立の類似例としては、「地球温暖化人為説」と「進化論vs創造論」の論争があります。
他例との比較検討は理解を深めるために有効なので、これらについて説明していきます。

結論から言えば、“懐疑的”の点で地球温暖化人為説の「懐疑論者」と「慎重派」に共通点が、“確信的”の点で創造論の「原理主義者」と「脅威派」に共通点があります。なお、主流学会側は三つともほぼ同じです。
 これらのイメージを図7に示しました。

 図7

事実問題では、特に 1)データの内容や注目点とその信頼性、 2)ロジックの展開とその論理性、 3)別の意図の混入、が重要です。そこで、これらの点で比較すると、すべての点で「懐疑論者」と「慎重派」、および「原理主義者」と「脅威派」が共通していました。(すべてが ←)  両組み合わせ(水色枠とピンク枠)での共通性が高いことが分かります。
 また、主流学会との比較では、「懐疑論者」と「慎重派」はデータの注目点とロジックの展開のみが主流学会と異なり赤字、他はすべて同じ緑字でした。一方、「原理主義者」と「脅威派」はすべてが異なっていました。前者の方が主流学会に近いことが分かります。

これらの結果を表1に示しました。

 表1

  以下、図7と表1の根拠について説明します。

「地球温暖化人為説」は、温暖化の主原因は人間の活動によって排出されるCO2であり、これを抑制しなければ将来破局的な被害が発生するとの学説で、多くの学会で認められています。
 これに対して「懐疑論者」と呼ばれている一部の学者は、学会のCO2偏重と自然変動軽視を批判していますが
、「懐疑論者」が使用するデータの内容とその信頼性は学会とほぼ同じで、ロジックの論理性を重視することも同じ、意図の混入が少ないことも同じです。ただ、どのデータ(たとえば、最近10年間の温度)に注目するか、どのようなロジック展開(温度はCO2と比例していないから無関係)とするかに違いがあって、最終的な結論は異なったものとなっています。

 

一方、「進化論vs創造論」のうち、生命は単純なものから進化したとする進化論は科学的根拠に基づいた学説であり、ほぼすべての学会で認められています。
 これに対して生命は聖書の記述どおり神によって今ある姿で創造されたとする創造論が「創造論原理主義者」によって信奉されています。
「創造論原理主義者」が認めているデータ(例えば、地球の歴史は一万年以下)自体が学会とは全く異なる上、ロジック展開(聖書ありき)も異質なものとなっていますし、学会では強く忌避されている別の意図(聖書に誤りはない)の混入が目立っています。それにも関わらず、聖書をすべての基盤に置いている「創造論原理主義者」としては、ここに何の問題も感じるはずはありません。むしろ、聖書の深遠な真理に比べれば、進化論のどのような証拠も取るに足らないもの、あるいは嘘で固められたものとしか考えられないでしょう。

 

さて、被曝許容量の「慎重派」と「脅威派」はどうでしょうか?
  「慎重派」が認めているデータは前3章
で示したように主流学会とあまり変わりません。ロジックの論理性が大きく損なわれているとも、また別の意図の混入が顕著とも感じられません。ただ、どのデータ(甲状腺異常の発見率)に注目するか、どのようなロジック展開(過去データと比較)とするかで学会と異なっています。

これに対して「脅威派」が認めているデータ(すでに健康被害が発生)自体が学会とはかなり異なります。ロジックの論理性(対照群との比較)は軽視されているようですし、別の意図(東電/国の追及・脱原発)が混入されているように感じます。しかし、「脅威派」は被曝被害を確信している人々なので、そのようにしか考えられないでしょう。

 

 ちょっと込み入った話しだったので、まとめると

  ・被曝許容量の論争は「弱小批判者vs主流学会」の信念対立

  ・特徴は「相手を全否定」、および事実問題なのに「答えは不明のまま」

  ・「慎重派」は地球温暖化での「懐疑論者」に、「脅威派」は創造論での「原理主義者」に類似

  ・両組み合わせとも、1)データの内容・注目点・信頼性、2)ロジックの展開・論理性、3)別の意図の混入のすべてが共通

 となります。


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