研究 T編 予備的な検討
 T-3章
 「事実対立」「非事実対立」 1-3
                                                                           
1. はじめに
 客観的な「事実」は基本的には正しいか否かが明確となる(白黒がはっきりする)ので、皆で共通了解され得るものである。それに対して、主観的な「事実以外の考え」は人それぞれであり、正誤はないとされている。したがって、「事実」に関する対立と「事実以外の考え」に関する対立はかなり異質なものとなるはずであるが、このいずれの対立でも“不毛な信念対立”が発生している。
 そこで、これらの対立の分類と特性、およびそれぞれの本来の姿と現状について確認した。

2. 分類と特性
 科学的事実をはじめとする客観的な「事実」に関する対立を「事実対立」とする。基本的には、結論を導く根拠もすべて「事実」となる。「事実対立」は事実認識の正誤を争っているので、「正しい答え」(真実)がただ一つ存在し、少なくともどちらかの主張は間違っている。そして、(本来なら)当事者は、真実こそ皆に利益をもたらすと理解しているが故に、確かな証拠と厳正な論理思考に基づいて真実を導き出そうとしている(はずである)。
 
 一方、理想(こうあるべき)や感想(こう感じる、こう想う)などの主観的な「事実以外の考え」に関する対立であって、根拠の多くも「事実以外の考え」である場合を「非事実対立」とする。争っているのは考えの適切さとなるが、個人の考えは人それぞれであり、いずれも尊重されるべきなので「正しい答え」は存在しない。しかし、死刑制度や中絶(米国)などで社会として一つの答えを出さなければならない場合には、そこに激しい対立が生じることになる。
 
 さらに、主観的な「事実以外の考え」に関する対立ではあるものの、その重要な根拠が「事実」である場合は「事実対立」とも「非事実対立」とも言い難いので、これを「複合型」とする。(逆に、客観的な「事実」に関する対立でその重要な根拠が「事実以外の考え」であることは本来あり得ないので、これは対象外とする)
 「複合型」は人間(集団)同士の対立としては最も一般的と言えよう。
 
 それぞれの対立の要点とともに学術論争での事例を示したのが図1である。物理学や地球科学などの理学系(自然科学)の学術論争は「事実対立」、哲学や倫理学などの人文系の学術論争は「非事実対立」、社会学や政治学などの社会科学の学術論争は「複合型」となるだろう。

図1
  

 “不毛な信念対立”の事例は図2のようになるだろう。

  図2

 ちなみに、将来の予測であっても確固たる根拠のあるものは「事実」としている。たとえば、1年後の日の出時刻の予測結果は「事実」と言えるが、1年後の株価の予測は「事実」とは言えない。この観点から、予測が含まれる被曝リスクや子宮頸がんワクチンに関する対立も「事実対立」としている。

3. 本来の姿と現状
 各対立での本来の姿と“不毛な信念対立”になっている現状を確認する。

3-1 「事実対立」
1)真実こそ皆に利益 
 「事実対立」では、上記2.の(本来なら)・・・(はずである)での記述の前半「真実こそ皆に利益をもたらすと理解している」が本来の姿のひとつとなる。もし間違った事実認識が幅を利かせることになったら、たとえ一時的に一部の人々だけが利益を得ることがあっても、長期的に皆が利益を得ることなどあり得ないのは明らかであろう。

 そして、“不毛な信念対立”の渦中にいる当事者も、恐らくはこれに全面的に賛同し「だからこそ、必死で戦っている」との思いを持っているのだろう。
 しかし、当事者は次のことまで理解しているだろうか?
  @ 対立(議論)に勝つことには何の意味がなく、真実を見出すことにこそ意味がある。
  A 真実にたどり着くためには真摯で建設的な議論が必須であり、“不毛な信念対立”はその真逆。
  B まずは“不毛”の改善に努力すべきである。

 しかしながら、現状では当事者の多くが対立相手の主張を真剣に検討すると言う“不毛” 改善の第一歩すら軽視し、むしろ自説を強引に押し通す、さらには相手を誹謗中傷すると言う“不毛” 促進にかまけている場合が少なくない。


2)確かな証拠と厳正な論理思考 

 記述後半の「確かな証拠と厳正な論理思考に基づいて真実を導き出す」も本来の姿となる。これについても、いい加減な証拠と論理的でない思考では真実にたどり着けないのは明らかだろう。

 しかしながら、現状ではこの当たり前のプロセスを守っていない人が少なくない。パターンとしては次のような広がりがある。
 第一に、主に知識/能力の理由から本プロセスをほとんど無視して結論を出している人々がいる。本人に問題意識はないので「無知の過失」とも言える。たとえば、子宮頸がんワクチン反対派に目立っている。

 第二に、一応は本プロセスの重要性を理解しているものの、主にバイアス(価値観や利害など)やヒューリスティック(直感で素早く答えに到達する方法)の理由から本プロセスを軽視してしまっている人々がいる。
 問題意識はあるので「未必の故意」と言える。たとえば、原発反対の人々は被曝リスクを過度に強調している。聖書を文字通りに信じる人々は「誰も進化を見たことはない」と言い逃れている。南京虐殺の両陣営シンパは身内の宣伝しか見ずに相手を非難している。

 第三に、意図的に事実をねじ曲げる「確信犯」もいる。事情に通じている活動家・「専門家」(カッコ付き専門家。いわくつきの/他分野の/自称の専門家)が多く、自分の価値観実現や利害に思惑があるのだろう。たとえば、原発撤廃派の一部は体内のカリウム40を無視してそれ以下の内部被ばくの危険性を煽っている。


3-2 「非事実対立」「複合型」
1)適切な「事実以外の考え」
 「非事実対立」「複合型」でも案件が社会的なものである場合は、結論・根拠ともに「事実以外の考え」であっても社会的に適切であることが本来の姿となる。適/不適が明確に現れ、実際に社会に影響を及ぼすからである。
 たとえば、穢れの価値観に基づいて葬儀からの帰宅時に塩を撒くことになんら問題はないが、原発事故による軽微な放射能を穢れのように考えるのは不適切である。また、有効性/安全性が確認済みのワクチンをむやみに忌避する考えは、集団免疫効果を低下させ弱者を死に追いやりかねないので不適切である。


2)合意された「事実以外の考え」
 さらに、社会的案件の「非事実対立」「複合型」において「合意された『事実以外の考え』」は、「事実対立」での「正しい答え」と同等性を持つのが本来の姿となる。
 それは、合意によって社会的に適切な答えが選択されたことになるので、社会にとっては実質的な真実となるからである。たとえば、殺人の禁止、弱者を守る福祉、思想信教の自由のいずれも現代社会にとっては真実と言えよう。
 また、当事者としては不本意であったとしても、対立の混乱による不利益が合意によって消えることになるので皆の利益となるからである。たとえば、米国での禁酒法廃止は一部の人には不本意であっても、社会に平和が戻ったとの点で皆の利益になった。

 まとめると、表1となる。
 

 表1
 したがって、「事実対立」での3. 3-1 @〜B が「非事実対立」「複合型」にも当てはまることになるが、現状としては「事実対立」よりも絶望的となっている。たとえば、原発の撤廃 vs 存続や右翼vs左翼では対立相手への誹謗中傷は幅広く日常的に行われている。

3-2 各対立共通
 
以下2点とも問題となりやすいのは「複合型」であるが、「事実対立」の場合には致命的となる。
1)「結論ありき」

 当然ながら、根拠によって結論が決められるのが本来の姿であるが、この逆である「結論ありき」が発生している場合がある。
 たとえば、原発の撤廃vs存続では、結論の根拠となる「事実」はとても複雑で高度なものとなるが、これらを自分でしっかりと理解している人はわずかであり、自分の「事実以外の考え」による結論に合わせているだけの人が大多数であろう。
 この「結論ありき」をよく表わしているのが、原発の安全性に関わる認識は撤廃側と存続側できれいに分かれている事実、さらには右(体制)寄りと左(反体制)寄りでもきれいに分かれている事実である。

2)「非対称」
 当然ながら、「事実」については両当事者がともに「事実」として議論するのが本来の姿であるが、一方の当事者にとっては「事実」であることが他方はそうではない、いわば「非対称」となっている場合がある。
 たとえば、被曝リスクを科学者は健康に関わる「事実」として議論しているのに対して、原発撤廃派は反原発運動の有効な道具として議論している場合が多い。
 そこで、科学者から見ると相手は「何とも非科学的な!」となり、原発撤廃派から見ると相手は「人間としてどうなのか!」となっている。


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