専門家の発言  F-3-4



6 「両者の事実認識による批判」法のメリット   2014.1.31  (更新 2014.12.31)

 2〜5章では「両者の事実認識による批判」法の仕組みと実例を示してきましたので、本章では本法のメリットについて考えます。

 
 その前にいままでの要点を再確認しておきます。

 1) 影浦氏は専門家の「ことば」(表現・言い回し&枠組み・論理性)を批判しているが、「自分だけの事実認識」で批判しているため建設的な議論につながっていない。

 2) これを改善するために提案された「両者の事実認識による批判」法は、
  T 両者の事実認識を明らかにする
  U 仮に「相手の事実認識を前提」として相手の発言・主張を批判する
  V 自分の事実認識に基づいて相手の発言・主張を批判する

 3) 中川氏に対する影浦氏の批判を素材にして、本法を適用した仮想議論を作成した。

  4)山下氏に対する影浦氏の批判を基にして、Uだけの利用でも有効なことを示した。

 

  それでは「両者の事実認識による批判」法のメリットについて考えていきます。

 

 まず全般的には、本法では互いに異なる事実認識を持つ両者(事実認識のレベルに差がある非専門家と専門家も含む)においても議論を成立・展開させることが可能となります。そして、事実認識の違いに絡み合って混沌となっている他の諸問題を明瞭に浮かび上がらせて、それに集中した議論を行なうことが可能となります。


 つぎに、本法の特徴的なUでの具体的なメリットを3点挙げることができます。その理由とともに下記に示します。

a) 批判に耳を傾けてくれる 
 両者(批判者と被批判者)は同じ事実認識に基づいているので、被批判者は批判をむやみに無視できません。
 (自分とは異なる事実認識に基づいた批判は無視されるのが常)

b) 訴求力のある批判となる 
 同じ事実認識に基づいた上での批判なので、批判がその問題点にフォーカスされ、被批判者にも理解されやすくなります。
 (従来の批判は事実認識の問題と発言の問題がごっちゃになっているので、争点のピントがぼけてしまうだけでなく、被批判者は批判の展開を追うことすらままならない状況となる)

c) ユニークな批判となる 
 「相手の事実認識」に基づきながらも「自分の考え方」によって「相手の発言・主張」を批判すると言う従来には全くない形(前2章 図3になる。
 
(従来の「自分の事実認識」と「自分の考え方」による批判では、ありきたりのものにしかならない)

 

  これらのメリットを、上記の仮想議論を例にしてもう少し詳しく説明します。

a) 批判に耳を傾けてくれる 
 仮想議論の前半、K氏(影浦氏を想定)の「11年で100mSvの影響、つまり0.5%のがん死となるは大問題」と指摘に対して、N氏(中川氏を想定)は「実際の被曝量は・・・」と応じています。N氏としては、これらの指摘には反論しないわけにはいきません。なぜなら、その指摘は自分(N氏)の事実認識に基づいていますので、沈黙していればそれを認めたことにもなってしまうからです。そこで、N氏はあわててより詳細な事実認識を説明し、自説の正当性を主張しています。

これに対して、従来のように自分(N氏)の事実認識に基づいていない批判であれば、N氏はそれを無視しておいてもなんの問題も起りません。K氏のように非専門家からの批判ならなおさらです。また、無視する気はなくても、自分では理解できない事実認識に基づいた批判に対しては「その事実認識は間違っている」以外には何も言うことが出来ないでしょう。

b) 訴求力のある批判となる 
 後半の水俣病と関連させたK氏の批判は、かなり強力な訴求力を持っています。N氏にまともな反論すら許していません。これは、相手(N氏)の事実認識をすべて正しいとした上で、そこに隠されているN氏の弱点を突いたからです。

 これに対して、従来のようにK氏が「前提となる事実認識が間違っている上、ここもおかしい」と批判すれば、専門家であるN氏からは事実認識に関する強力な(専門的な)反論が返ってきます。

c) ユニークな批判となる  
 上記水俣病関連でK氏が指摘した弱点は、相手(N氏)の「事実認識」ではなく相手の「考え方」です。(相手の事実認識はすべて認めている) もともと「事実認識」と「考え方」は独立したものなので、このような新規の組み合わせでユニークな批判が出来あがるわけです。すなわち、K氏は「相手(N氏)が考えもしなかった点。しかし、考えるべきであった点」を指摘することができたのです。

 

  以上は関係者全員(批判者・被批判者・福島県住民・日本国民)にとってのメリットでしたので、以下に批判者のみにとってのメリットを示します。批判者だけのメリットはいくぶん利己的で非本質的とも言えるのですが、批判者にとって本法を採用する個人的な動機となるので実用的には重要となります。

 d) 事実認識で攻撃されることはない。
 Uの批判は相手の事実認識を前提としているので、当然ながら事実認識に関しては攻撃されることはありません。例えば、前章1の注-2)では影浦氏の事実認識に疑問が投げかけられていますが、これによって影浦氏の批判(主張)そのものの信憑性が低下しかねませんし、本書でのすべての批判が否定される恐れもあります。しかし、Uの批判ではこのような心配は無用です。

e) 事実がどちらに転んでも全滅しない。
 自分の事実認識は正しいと思いがちですが真実は冷酷です。将来、自分の事実認識の間違いが明らかになったらVの批判は無効となりますが、Uの批判は有効のまま生き延びます。逆に、相手の事実認識が間違っていたらVが生きます。どちらの事実認識が間違っていても批判が全滅することはありません。

f) 相手の発言・主張を生き残らせない。
 将来、相手の事実認識の間違いが明らかになったとします。本来であればその事実認識に基づいた相手の発言・主張は崩壊して消し去られるはずですが、発言・主張に曖昧・ごまかし・矛盾を含んだままだと生き残ってしまう恐れがあります。しかし、Uの批判ではこれら曖昧・ごまかし・矛盾を追求して是正させますので、生き残りを防ぐことが出来ます。


以上のように、「両者の事実認識による批判」法には重要なメリットがいくつもあることが分かりました。

 もちろん、メリットがあっても適用可能性(特に、特徴的なUの適用可能性)が小さければ実用的ではありませんが、これについてはケースバイケースであり、また批判者のやる気と能力にかかっていると思います。例えば、本書の場合、現状の批判の大半(「それでも」批判など)はそのままではUでは成立しないものですが、もし影浦氏がやる気になりさえなれば、かなりの批判がより深化されたものに生まれ変わってUでも成立できるようになると思われます。もしそうなると本書の価値は飛躍的に上がると期待されます。

 

7 「両者の事実認識による批判」法の一般化   2014.1.31  (更新 2014.12.31)

 いままでは影浦氏の批判について考えを進めてきましたが、これは事実に関する案件での“不毛な信念対立” (地球温暖化人為説・進化論vs創造論・南京大虐殺/従軍慰安婦の認否など)にそのまま一般化することができます

  ただ、価値観に関する案件の信念対立(死刑制度の是非・靖国/九条/国歌国旗論争など)には適合しません。


  実際に、影浦氏の批判の問題点とした「自分だけの事実認識」で批判するのは、“不毛な信念対立”での基本的なパターンになっています。

特に“没議論型 不毛な信念対立”(論考 原発災害シンポの5)ではこの問題が深刻になっています。議論が曲がりなりにも行なわれている場合には両者の事実認識(少なくともキーとなる事実認識)は表に出て明らかになっていますが、“没議論型”ではその機会がないため、実は相手の事実認識をよく知らないまま対立している場合すらありますので、本法がより有用となります。
(ちなみに、「自分だけの事実認識」による批判であれば相手は聞く気にもならないのが常なので、自然に“没議論型”になってしまうでしょう)


 なお、論考 原発災害シンポの8,9 において “没議論型 不毛な信念対立”の改善策を示しましたが、これらは議論のスタートとなる相手への批判すら行なわれていない状況から一歩を踏み出すための方法で、いわば議論スタートのための動機付けです。
 これに対して、本法は、批判は行なわれているがそれに対して反論がなく批判が一方通行で終わってしまっている状況を改善する方法で、いわば議論化のためのテクニックです。このテクニックは “没議論型”以外でもすれ違い対策として有用となります。

さらに、ネット環境の発展などによって科学・医学などの専門的分野における専門家と非専門家が議論する機会が増えつつあります。これは専門家の集団思考や専門バカの弊害を排除するために望ましいことなのですが、実際にはその多くが“不毛な信念対立”に留まっています。
 この場合には、非専門家が議論に必要なレベルの事実認識(知識)を持ち得ていないことが主な原因なので、本法のうちのUの「仮に『相手の事実認識を前提』として相手の発言・主張を批判する」の利用が特に有用になります。


 

そこで、 “不毛な信念対立”の改善策として本法を図5のようにまとめることが出来ます。
(「発言・主張」を「信念」に変更している以外は前章までの本法と同じです)



 

 

  以上により、専門家の発言に関する影浦氏の批判について考えを進め、最終的に“不毛な信念対立”に対する改善策を提案することで、本論考を完結させたいと思います。

 

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