原発災害シンポ    F-2-6



13 「すり合わせ」      2013.10.22   (更新 2015.1.11)


 本論考の最後に、坪倉氏の講演とパネルディスカッションでの発見2点を本章と次章で紹介したいと思います。


 本シンポジウムでは「安全派」に向けて、「もし、安全と言うなら一筆かいてほしい」(吉田氏)とか、「専門家は『分からない』と言うべき」
(石田氏)との話しがありました。吉田氏の白か黒かはっきりしてもらいたい気持ちは住民として当然なことですし、石田氏の慎重・謙虚であるべきとの主張は慎重派学者としてもっともなことだと思います。そして、両名のお話しは、ストレートでとても分かりやすいものでした。
 分かりやすさの点から考えると、シンポジウム外での筋金入りの脅威派論客のお話しも、同じくストレートで分かりやすいものとなっています。

 

これらに対して坪倉氏のお話しは、残念ながら決して分かりやすいものではありませんでした。ストレートとはとうてい言い難いものです。

例えば、
 「・・・と言うのも事実だと思います。しかし、トータルリスクから考えると・・・だと思います。」
 「・・・はYesだと思いますが、もし・・・のレベルで議論するなら・・・・だと思います。」
 「・・・は気になっていますが、一般論として・・・・としか言えない状況です。」
 「・・・もあり得ると思います。ただ、今の段階では・・・・と思います。」
 と、こんな調子です。

 

この違いの背景には次のようなことがあると思います。

低線量(特に福島での1〜10mSv)の被曝被害に関しては現在、様々な見解が存在していますが、それは関連する事実群のごく一部しか明らかになっていないからです。つまり、現在利用できるデータは広島・長崎やチェルノブイリ等での調査、様々な動物実験、基礎医学研究などがありますが、いずれも被曝被害全体に対して網羅的とは言いがたく極めて断片的なものとなっています。そこで、これらのどのデータを重視するか、そのデータをどのように解釈するかで大きく異なる見解が形成され、議論も混乱しているのです。 

このような状況で、吉田氏は一方の見解をすっぱり切り捨てる「決めつけ」を、石田氏はこれらの議論からは距離を置いて「判断回避」を求めています。そして、脅威派は「事実軽視」(前章11)となっています。これではストレートで分かりやすい話しになるのは当然でしょう。

しかし、私としては、吉田氏の「決めつけ」には拙速の危険性を、石田氏の「判断回避」には傍観者的な先延ばしを、脅威派の「事実軽視」には責務放棄を感じざるを得ず、いずれも問題解決を遠ざけているように思えます。

 

これに対して坪倉氏は、危険/安全両サイドの様々な見解を確かな事実としっかりとした論理に基づいて丁寧に検討し、ひどく逡巡しながらも最終的にはひとつの意見にたどり着いています。つまり、様々な見解を素直に(一方的に切り捨てたり遠ざけたりせずに)受け入れた上で、それらをぎりぎりまですり合わせて結論を導いています。 

坪倉氏は、「決めつけ」でも「判断回避」でも「事実軽視」でもなく、諸見解の『すり合わせ』を行なっているのです。これでは話しが分かりにくくなるのは当然です。

 

被曝被害の真実は深い闇の中に隠されており、所々にかすかな光が照らされているだけです。このような状況では、より正しい結論に至る道は決して明瞭ではなく分かりにくいのが当然です。むしろ、ストレートで分かりやすいものは警戒すべきでしょう。そして、その分かりにくい道をなんとか前進するための方法は、このような『すり合わせ』しかないでしょう。

 『すり合わせ』は決してスマートではなく、とても煩雑で面倒な作業となります。もちろん誰もができれば避けたいものでしょうが、これしかないので仕方がありません。坪倉氏はこれを愚直に行なっているだけだと思います。

 

ちなみに、本サイトでは“健全な信念対立”こそ真実に近づく最善策としていますが、この観点からは『すり合わせ』は坪倉氏一個人の中で行なわれている“健全な信念対立”とも言ってもよいでしょう。
 
そして、多人数で行なう本来の“健全な信念対立”はもっと大変な作業となるのでしょうが、これをやるしかありません。



14 「お仲間」       2013.10.22   (更新 2015.1.11)

 先に(前章9)、議論なし状態の解決法のひとつとして「対立相手と『お仲間』になること、それも同じ目的に向かって苦労をともにした仲間となること」を提案し、「この方法は頭ではなく体・心によるものなので、うまくいけば大変よい結果が得られる」としましたが、この実例となり得るものを意外にも本シンポジウムで見つけました。

 
 吉田氏(左)と坪倉氏のパネルデスカッション      IWJによるWEB中継より

 

吉田氏と坪倉氏はともに南相馬市で活躍されていますが、その意見は真っ向から対立しています。

吉田氏は市民の立場から被曝被害を強く訴える「安心安全プロジェクト」の代表で、「安全派」批判の急先鋒と言ってもよい方です。本シンポジウムの講演では、特に空気の放射能汚染を強調され、結論として「安全である根拠などどこにもない」としていました。

一方、「安全派」の一員と見なされている坪倉氏は、内部被曝量の測定データを根拠にして、普通に生活しても問題ないとしていました。

 

お二人の連続講演の後にパネルデスカッションに移った際には、まさに壇上での対決のようになったので、司会者はとても気を使い会場にも緊張感が漂っている感じでした。パネルデスカッションでも、吉田氏は「住民に危機感がないのは、この人(坪倉氏)などが安全、安全と言うものだから・・・・・」と厳しく批判していました。一方、坪倉氏は「例外的に内部被曝量の多い人は、『外でいっぱい空気を吸っている』からではなくて、・・・」と吉田氏の講演内容を真っ向から否定していました。
  まさに激しい論戦です。

 

しかし、大変不思議に思ったのは、このような状況にありながら、二人の間にはとげとげしさ・険悪さがほとんど感じられないのです。

双方ともに、批判・否定発言の最中も相手方は「また言っている・・・」のような感じで、全然平気です。身構えたり、怒っている様子は全くありません。
 終了して降壇する際にも、「また、よろしく」のような感じで挨拶していました。

 これは本当にどういう訳なのでしょうか?

普通ならば意見の対立する相手には敵愾心を抱くのが普通ですし、聴衆の面前で自説を真っ向から否定されれば頭に血が上るでしょう。そして、議論のレベルはどんどん低下し、人格攻撃にすら陥ってしまう醜い姿を今まで何度も見てきました。

恐らく、吉田氏の横に座っているのが、県の健康責任者である「どこぞの大先生」であったとすれば大変なことになっていたでしょう。
 どういう訳なのでしょうか?

 

しかし、すぐにこの理由が思いつきました。
 坪倉氏の講演で「支援初期には除染活動など現場の作業を皆で一緒にやってきたが、それがあったからその後の連携がうまく行った」とのお話しがありました。そして、実際、吉田氏と坪倉氏は汗だくになりながら除染活動を行なった仲とのことでした。
 まさに、同じ目的に向かって苦労をともにした『お仲間』だったようです。

 

両名参加の除染活動      IWJによるWEB中継より

 

混迷に陥っている被曝被害の論争の中、ひとつの小さな光をみつけた本章をもって、この原発災害シンポの論考を完結したいと思います。


                   前ページ