論考     原発災害シンポ
    F-2-0

概要

以前は専門家のみで行なわれていた被曝許容量(低線量被曝被害)の論争は、原発事故後には非専門家の「慎重派」「脅威派」および「安全派」が加わり、“危険陣営”vs“安全陣営”の対立として激化しました。

この対立の特徴は、構図的には「弱小批判者vs主流学会」、まともな議論が行なわれていないこと、議論の時間軸では「答えは不明のまま」となることです。なお、“危険陣営”の「慎重派」は原発事故による被曝被害の発生を懸念し、「脅威派」はそれを確信しています。

 2013年2月に、この「慎重派」「脅威派」の大学教員を中心として「アカデニズムは原発災害にどう向き合うか」とのシンポジウムが開催されました。内容は主に行政批判的なものでしたが、“不毛な信念対立”の観点から以下の3点が興味を引きました。

 

「慎重派」を自認するパネリストは、「10年以内に福島市民の平均余命に統計上有意な差が出ると思うか?」との質問に「なんとも言えない」「短くはなるだろうが、いろんな要素に隠れてしまう可能性あり」と答えていました。実は、これは「安全派」の事実認識とほぼ同じです。

同じ事実認識でも主張が異なるのは、「慎重派」が予防原則、確定していないリスク、気持ちとしての安心、倫理・正義、個人の健康などを重視し、一方「安全派」がバランスのとれた施策、確定しているリスク、結果としての安全、実効・効率、公衆衛生などを重視しているからです。

そこで、「慎重派」には折角の独自の考え方をベースとして「脅威派」レベルを超えた、しかも「安全派」では思い至らないような意義ある主張を展開していただきたいと思います。

 

また、シンポジウムでは「なぜ、意見の対立している専門家は直接議論しないのか?」との疑問が示されていました。
 これは“不毛な信念対立”の代表的なパターンのひとつなので、詳しく検討しました。直接議論しない理由は、
 1)「自己過信」(私は真実を知っている!)
 2)「相手否定」(この相手には期待できない)
 3)「答え不明」(意味がない)
 4)「防衛本能」(自分は変わるわけにはいかない) 
 5)「世論影響」(世論に影響してしまう) 
 と思われます。

これに対する全般的な解決策は、議論の「実利」や「議論を避けることは不道徳」をしっかりと認識することでしょう。
 個別理由の解決策は
以下のようになるでしょう。
 1)(自己過信)・・・脅威派は創造論原理主義者、主流学会はジュディス・カリーを参考とした自己点検を行なう。
 2)(相手否定)・・・「相手の主張にまともに批判できなくなった時に、相手の属性・人格への誹謗が行なわれる」との原則を思い起こす。また、宣伝用ではなく実際の正しい相手評価を行なう。
 3)(答え不明)・・・「不明故に議論で負けは確定しないので、気にせずに自分の主張を述べれば自分たちの宣伝になる」とする。
 4)(防衛本能)・・・従来の信念構造では事実が意見を生み出し、その意見が強く固まったものが信念とされていたが、事実を変数とする関数の値を意見とし、不動である関数を信念とする。その人の基本的な考え方・価値観によって構築される関数は、事実に応じてその人なりの意見を生み出すもので、これこそまさに信念。新しい信念構造では、事実認識が変更されても、自分の信念を堅持したままで自分の意見をより正しいものに修正できる。
 5)(世論影響)・・・公開議論ではなくインターネットでの会議室スタイルにする。

 

また、シンポジウムでは唯一の「安全派」講師が「今後も健康被害は出ない」と判断していたのに対して、データのない“危険陣営”は何の反論も出来ませんでした。
 一般的にも、“危険陣営”には「事実軽視」の傾向があって、事実関係のあいまいな判断が少なくありませんし、「事実よりも主張」になっています。事実に対する真摯さ・厳しさに欠けているようです。
 これは “危険陣営”の信頼失墜につながり、世論は“安全陣営”の主張を無批判で信じ込むようになってしまいます。もし「安全派」の判断に基づいて避難住民が帰還した後に、その判断が間違っていたことが分かっても手遅れとなり二次被害が発生するでしょう。まさに“不毛な信念対立”の悲劇です。
 そして、この時には、“危険陣営”は「安全派」と同程度の責任(不作為責任)を負うべきだと思います。


  


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